私的幸福論

平和の対義語は?

とあのゴーマニズムな本の帯ではないないが、そのような事を今年の初め辺りにふと考えていた。
それは平和という言葉は何か具体的なものを指すのではなく、抽象的なそれこそ一種の願望そのものであり、そんな状況は存在せずに、だからこそ定義でぎないものではないかと考えたからだ。
その意味で対義語を鑑みれば、その証明が成り立つのではと思い、考えてみるけれども全く思いつかず他の人に質問していた。この質問をすると大多数の人が、“戦争”と答えるのだけれども、これは正解ではない。確かに戦争のない世界は平和かもしれないが、それは平和を脅かす一可能性でしかない。もし、平和という状況下に対しての対義語ならば、混沌とか貧困となるのんだろうか。

おもしろい返答が一つあった。
世界の80%の人が幸せだと思ったら平和で、その条件が果たされない場合。
なんだか質問意図を大きく外れ、意味合いが拡大してる気もするがここまで明確に答えられたので気になった。
結局のところ、平和とか幸せとかは、その当事者達が思っていないと成立しないし、同時に大多数の人が同意見に成りうる可能性というのは低いものであるし、その各々の絶対条件もまた千差万別。定義しかねるというのが本音だ。

人それぞれの定義。
もし仮に平和が幸せの集合体として、その末端である個人個人の幸せとはいかなるものか。
僕自身で言えば、幸せというのは“あぁ、もうこれ以上いらない!”という腹八分目と言ったところか。
わかり易く言えば、昼間から万博公園の芝生でビールが飲めたら、それだけで幸せだ。
この場合、「昼間」+「晴天」+「芝生」+「ビール」という四条件だけが揃っていれば良く、まぁ本当はツマミの一つも欲しい所だけど、それがなくても僕は十分贅沢で幸せな時間を過ごしています。という意味での腹八分目。
そう考えると、幸せというのは人が贅沢だと思える、お風呂で言うならば少し溢れる辺りから感じ取ることが出来る。そうなると幸せ一杯の人は物凄く贅沢な人か、物凄く心の貧しい人だと言える。しかし人の欲というのは際限がないので、物凄く贅沢な人というのは一秒一秒その幸せになる絶対条件を一つ一つ潰しているように思える。
ならば幸せになりたいのであれば、心に貧しさを持つことだ。
なんだか貧しさというと聞こえが悪いが、ネガティブに生きるという意味ではない。
言語化できないな。安易ではあるが、良い意味でね。


それと全く関係ないが、最近「涼宮ハルヒ」が可愛く思えて仕方がない。
長門有希も捨てがたいが、やはり明朗快活、破天荒にして才色兼備なハルヒに惹かれる。
この前、この作品の原作本を買ったのだが、これが人生で初めてのライトノベルス購入である。なんだか俺もどんどんキモいオタクになっているなと実感しながら、電車の中だけは読まないようにしよと心がける。
あと「涼宮ハルヒの憂鬱 第09話 サムデイ イン ザ レイン」の作中で、何故か本棚に置かれている阿部和重氏の「グランド・フィナーレ」のアニメ的演出意図が全くわからないでいる。誰か教えて欲しいものだ。