一ヶ月前のことか、僕はまたしても自宅の鍵をなくした。
“またしても”と言うからには数度に及んでいる事なのだが、考えてみると今回で四度目である。
それは常に朝帰りの時に起きる。確かこの辺りにあったはずの鍵はいつの間にかに本当に超常現象的に消滅している。
さらにうちの家はカードキーなので普通の鍵屋に頼めず、白々した朝はいつの間にか煌びやかな昼になっている。
自宅の前で数時間、時間を潰す苦痛を貴方はご存知だろうか?
この前なんぞ業者が来るまでの間、サリンジャーの「フラニーとゾーイ」を読んでいたのだが、あれ程までにサリンジャーを無能な作家として思ったことはない。仕方がないので普段は行かないゲームセンターに行くも何をしていいのかわからない。知ってましたか?昨今のゲームは100円で出来ないのですよ!僕らの時代は50円のストファがあったのに。糞ったれ!
体はヘトヘトに疲れており、今直ぐにでもフカフカのベッドにもぐりたいと願っても、わずか数cmの鉄の扉を介してそのなんでもない普通の願望は無にきせられる。なんと殺生なっっ!
これ程までに鍵を憎んだことはない。
第一に“鍵”の分際で生意気である。おまえの役割はたかが3㎝四方の鉄の塊を移動させることだけではないか!幾ら私が無能な人間だろうとしても、もう少しは働ける。嫌、その仕事が無機質で無感情だからこそ、鍵は鍵であり続けられるのだろう。人間的な鍵はそれはそれで有難いものだが、それでは鍵が鍵たる本質を無視したものになる。
何の話だ。
今の鍵は通算で五本目にあたる。考えてみれば鍵をなくさない保障が何処にある。あんな小さくて体に直接付けられないものどうしたらなくさないのか教えて欲しいものである。しかし、私も馬鹿ではない。人は学習する。絶対に身から離さないものNo.1の物体の同じ場所にいつも同じように保管すればいいのだ。こんな簡単な話はない。こんな初歩的なこと、ワトソン君だって知っているだろう。得意面で述べるほどまでもない。けどやはり絶対でもないこと確かだ。
話は変わるが昔、「人にとって鍵とは?」という卒論を書いた人がいるという。是非ともその人にあって、じっくりと話合ってみたいものだ。そして美学・美術史がいかに非生産的であるかを論じたい。
そしてこの話は終わる。

時間的にも空間的にも飛ぶという行為は常に同時でなくてはならない。
それは別個で行われる事象ではなく、同じ事象を二通りの観点から述べているに過ぎない。
仮に空間的に飛ぶことが可能だとし、同時間に異なった場所へ移動(ワープ)するには、空間に歪みを起こさなくては成らず、それは三次元の舞台を超越し、四次元の事象になる。ならば、そこに時間軸の問題が発生し、自ずと時間的効力が起きなくては成らない。よって時間的移動と空間的移動とは切り離せない問題なのである。

嗚呼、散文、散文、失敬。

どうやって終わらせようか。

鍵ね。鍵は何処だ。そして開けるべき開かずの扉は何処だ。何処だとは逃げか。移動していないのに逃げか。
問題内容を何処だという異界に放り込むことによって誰にも言及されずに済んだ気でいるのか。嗚呼、目が乾く。
多分、事の本質はここにある。
つまり、僕は君といたいのだ。