『東京タワー ボクとオカンと、時々、オトン /リリー・フランキー』

泣けると聞いた話は殆ど泣けず本は後1/3を残す程になったいた。
この話は小説というよりは、唯の追記であり、ありきたりな言葉で言えば
母親に宛てた最期のラブレターである。
そして、この本の最大の良い点は、
嘘がないという所である。
フィクションかノンフィクションという話ではない。
作者自身が自分の気持ちを正直の書いていると言う点である。
だから彼は滅茶苦茶にカッコ悪い。
カッコ悪くて惨めだ。
そしてそれが証拠である。

さて、この本の感想を書く上で、重点になるのが泣けたが泣けなかったかという点である。
これは決して映画などで見られる「あれ泣けたよね」という一種のステータス的な意味合いではなく、
この僕が泣いた所、泣かなかった所、そしてそれが何故そうなったかという理由が重要であるからだ。

僕は本当に最期の最期まで泣けなかった。
彼が別府の専門学校に行くときも、上京し美大に行くときも、その後の怠惰な生活のときも、母親が入院したときも本当に唯スラスラと所々に爆笑しながらも読み進めていた。
後で気づいたのだが、僕が泣かなかった所というのは、ある程度もう経験した所である。
だから、世の中の男の大半がそうであるように、
学校のため一人暮らしをし、段々と学校に行かなくなり、金だけはしっかりもらい、それでも足りなくて滞納して結局払ってもらう。その時は本当に申し訳なく思い、二度とこのような過ちを繰り返すのは止めようと思うんだけど、また同じようなことしてしまう。
彼らの優しさがお金と言うはっきりとした価値基準で提供されることに対して、叱られるよりも殴られるよりも遥かに心が痛い。

病院に行って管だらけの母親を見る。腕はパンパンに腫れ上がり紫色をしている。会話は交わることなく、過去の誰かを自分に重ねられる。次第に言葉はなくなり依然の彼女ではないなにかになろうとしている。見ていられない。

こういう経験は多少の差はあれ誰もが経験してきているだろう。だからその時ゝのリリーの心情に共感、同時に自分を叱咤する。
だけれども僕は泣けなかった。わかるのに泣けなかった。そう、そうれは既に瘡蓋がかけられた箇所なのだ。何度も何度も剥がし、痛み、泣き、そして形成された瘡蓋。ある人は言うだろう。「鈍感になった」と。

けれども、その僕が号泣した。残りの1/3で泣いたのだ。
結末が悲しいのはわかっていたので、一人では見られないと近所のドトールに向かった。
店内は少しだけ込み合っていてココなら寂しくなりそうにない。
だけど、僕はそこで残りを読み終えるまでの間、号泣してしまったのである。
まわりのおっちゃん、おばさんには相当異様で滑稽な光景に見えたことであろう。
しかし、私は構うものかとひたすらページの上に水滴を落とし続けていたのである。

何故、僕は今まで泣かなかったのに、残りの展開に涙したのか。
答えは簡単だ。
僕が未だそのことを経験したことがないからだ。
それは親の死。
いつかはやってくる完全は別れ。
今までリリーの行動や思いに共感していただけに、この展開は胸にきてしまった。

本当に彼のオカンはステキな人やったんよ。
でも、それは彼のオカンは唯ステキな人やったってだけやなく
誰の親も素晴らしい人なんよ。
唯、それを気づいているか気付いてないか
そして彼はそれに気付いたってことやろ。

両親は元気にしているだろうか。
馬鹿みたいだけれども素直に感化されてしまって、そんなことを思った。
突然悲しくなって、家には帰りたくなくなって商店街をいつまでもブラブラ歩いた。
風景がいつもと違って見える。
自分の感動の安さに苦笑しながらも、これで良かった思う。

人生は順番待ちをしているようなものである。
誰かが何かを経験したとしても、それは特別なものではなく必ず自分の番がやってくる。
我々は座ったままで何を唯待っている。
さて、次はどんな事がやってくるのだろう。

だから、この本は誰しもが読めるのだろう。
順番待ちをするあなたへ、直面しているあなたへ、もう済ませたあなたへ。
ただ、たったそれだけの話である。




東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

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NANA―ナナ― 14 (りぼんマスコットコミックス)

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