極私的映画論『テレビで怠惰した我等の理解力と肥大する胃袋』

六時のニュース。そこには二週間ばかり前に起きた大事件を未だに引きずって放送している。新たに加わる事実、広がる関連性とテーマ、ついっさきまで暗い洞穴の中で生活していたモグラのような大学教授が未だ目が慣れないといった感じで緊張しながらも事件について言及している。いつもと変わりのない六時のニュース。この話題は次の大事件が起こるまでまだ続くことだろう。
さて、このような事件が起きると必ずそこには関係者や目撃者が出てきて色々とコメントを述べては消えてゆく。そこで映像をストップして欲しい。その静止した映像を一つ一つ考えてみよう。先ずそこに写っているモノはモザイクをかけられていないだろうか?それは建物や場所の場合があるが往々にして人物の顔にモザイクはかけられている。はい、今度は再生してみよう。ストップ。次に音声はどうだろうか?聞きなれない音。そこにはきっと機械によってアホな宇宙人の発声のようにされた被写体の声が聞こえてくるだろう。最後は画面下。変声機によって声を高くされて結局なにを言っているかわかならい音声を補正するためにそこには被写体が言った言葉がテロップとして出ているはずである。
モザイク+変声機+テロップ=ニュース。さて、あなたはこれを映像と呼ぶ事が出来るだろうか?こんなもの映像なんかではない。唯の落書である。これならば最初から素材を撮りに行く必要なんかはない。子供に書かせた落書で十分である。このようにされている背景に人権の配慮がある。メディアは公正で中立的な立場で報道しなくてはいけない。しかし、実際のところ本当にそうであろうか?昨今報道されるニュースは客観的立場から撮られたと言うには程遠い気がする。容疑者を必要なまでに追い詰めるカメラ、明らかに綺麗に纏め上げられたインタビューのコメント、事実を事実のまま届けるという根本とは程遠い過激な表題の数々。極めつけは「罪の意識はないんですか!?」と被疑者に尋ねるインタビュアーの姿である。客観的ではなく主観的な映像であることは明白だろう。つまりのところ、モザイクに関しても人権を配慮してるという事ではなく、我々は人権に配慮してますよと言う宣言なのであるそうやって、中立的立場を偽っているだけなのである。
さて、今度は昨今のドラマについて考えてみよう。最近のドラマの特徴としてはテンポが良く、効果音・BGMが多用され、笑いと悲哀を両立させている。つまり、とても見やすいのである。先日ドラマを見ていたら途中考え事をしていて話の筋を追っていなかった瞬間があった。あれ今なんて言っていたんだろう?と考えてみると直ぐに話の内容を理解することが出来た。台詞を聞いていなかったのにである。それは考え事をしていても映像は何気なく見ていたのでそれできっとこんな事を言っているんだろうと想像できたからである。これは凄いことである。ということはドラマは映像と音声の二重説明で構成されている。これは至りに尽くせりである。見やすい、分かりやすい物語、それが今のドラマ。
さぁ、話は本題である。ニュースの中立を装った主観的な報道によって善悪や価値基準を押し付けられ、ドラマの甘い砂糖菓子のようなわかりやすい構成で判断力を衰えさせられている我々はまるでテレビによって洗脳されているかの如く思われる。嫌、この表現は決して言い過ぎではなく実際にそうなのだ。我々はテレビによって理解力を怠惰させ、それによって肥大化した胃袋はさらにその甘い砂糖菓子という“わかりやすさ”を欲している。
考えてみよう。そうすれば気付くはずである。結局、我々は何一つとして自分自身で選択なんかしていないのだ。
その病魔はいまや映画業界にまで押し寄せている。CGやアニメーションによってボロボロに汚され犯されてゆく映像達、本来思考力を要するドキュメンタリーの世界にまでわかりやすさを提案され、そして受け入れられた。代表的なものはマイケル・ムーアによる昨今の作品たちである。あれはドキュメンタリーであろうか?あんなものは唯の漫画である。我々がメディアによって与えられた善悪の配置を二元論的に逆にしているだけである。なんて安易な構成!ドキュメンタリーは本来そのような単純なものなではなく、もっと抽象的でわがままで無数の方向性を用意させられ困惑に導き最後に突き放すものだったのではなかったのだろうか?それでも我々観客はエンドロールという幕が下りようともそれに縋り付き自分なりに意味を見出そうとする。それがドキュメンタリーだと個人的には解釈している。いやいや、何もドキュメンタリーだけではない。映画についてもそうである。我々は帰りの電車の中で映画を何度も回想する。そして理解して共感する部分に興奮し、また理解できないが何故か心に残った部分を咀嚼するかのごとく探求するのである。しかし、私について言えば最近“心に残った映画”なんていうのは数えるほどである。おもしろかったが次の日には全然覚えてないというのが通例になってきている。わかりやすさとは実はわからないものである。分からないものこそ惹きつけられ分かるものである。
だから映画を沢山見よう。そして大いに悩もう。それがこの強制受動的情報化社会の中で唯一自分を自分だと保つ方法に思えて他ならない。