言語は何のために存在するのか。

shinka2005-03-05

今俺は滅茶苦茶焦っている。今目前にあることにも、そしてそう遠くはない将来についても。
どうにかしなくてはいけないということはわかっているのだが、どうしていいのかわからない。しかも、とりあえず動いてみよう!という行動力も見せられない。
例えば、今目の前に二本の分かれ道があったとして、さてどちらかに進もうか悩む。そして結局わからないんだから、とりあえず右に歩いてみようという行為は可能である。しかし、今の俺の状況は分かれ道が存在するのか、又存在していてもその地点と俺の立っている地点とでは地面がなく、一体どうすればいいの?というドラクエのダンジョン事態に意味不明な状況なのである。八方塞、手も足も出せない状態。ただ時間を恐れ、期限を褪せる毎々である。

話は変わるけど、最近自分の文章はこんなににも読みにくかっただろうかと思った。話言葉が主流で、細かい描写も心情も記載しておらず、ただあやふやな事実が箇条書きのように列挙されているだけである。そう思って、高校の時のブログを読み返してみるとあることに気付く。ブログを毎日つけていたり、面白かたりする人は往々にして孤独である。例えば面白いことがあったりして、あぁこれをブログにアップしようと思う。でもその間に友達なんかとあってその話をしてしまうと、もう途端にブログを書く気力が失せる。仮に書いたとしてもどこか話し言葉であったり、描写を省力して書いていたりする。これではおもしろくない。本質的には、ネットに挙げている時点で、ブログをしている人は誰かに見せたい・知って欲しいという事実を否定できないでいる。けれども、その対象が直接的(人に対して)であるか、間接的(ネットを通して)であるかによって又おもしろさは変わってしまう。そして間接的であれば、あるほどその人はやる気を出し、伝達力、つまりは文章力・誤字脱字ノー・サービス精神・毎日の更新などが向上してゆくのではないだろうか。それに関係するようにあることに気付く。小説を読んでいたとして、その話はほとんど直接話法か間接話法い分かれる。そしてこの直接話法の場合、大概の場合の話し手・主人公は冷静でクールである。なぜならば彼はここはどこか、あいつはどんな顔をしているか、どんな感じかを完全なる審査員・読者に提示しなくてはいけないのだ。日常生活においてこんなやつは滅多にはいない。そうであると感覚的に感じることはあっても、態々言語化して脳内に留めておく事はない。でも、あったとしたらそれは小説をよんでる最中か鬱か孤独である時だ。そして、そうした人の書く文章は内容的なおもしろさは別としてやはり言語化しているだけに読みやすく又おもしろい。のではないかにゃ〜