『幸福な遊戯 /角田光代』

この本。まず目に付くのはその素晴らしい写真である。
之ほどまでに朝、幸福、日常、朝が訪れる=生きている、光=幸福というイメージを与えてくれた写真はない。しかし、ちょっと前から本当に本のソウチョウに写真が使われることが多くなった。
本を著者で選ぶ私にとって、本のソウチョウというやつは言わば街頭のビラ配りのようなものである。往々にしてうざくて、存在を自分の中から消してしまいたいものである。しかし、時々気持ちの良い−付け加えるのならばカワイイ−センスの良いソウチョウに出会ってしまうと無意識に手にとってしまう。
この本もそんな存在であった。しかし、その時は買うまで行かずもとの平積みに戻した。その本が又半年くらいして平積みされていた。又しても訪れた軌跡に私の中で言葉がささやく。誰かが言っていった言葉だ。「例えば、本とかそういうものは良いと思った時に手に入れなくてはだめだ。金額などは無視してかわないといけない。次などという考えは往々にして破られる。それほど、素晴らしいものに出会うと言うのは奇跡的で運命的なものだ。」その教訓に従い私はその本を前の衝動と照らし合わせて買った。
この日は、大阪に着てから初めてバスに乗った。けれどもバスの乗り方−降り方−がわからなくて恐怖し、知人に電話をしまっくった。なんとか理解してバスに乗り込んでも、相変わらず恐怖はその不配分な空気の中に漂っていた。バスと言うのはそういうものかもしれない。夜のバスはその存在だけで恐怖だ。この話はしたかもしれないし、してないかもしれない。けれども今は本の話だ。O・K。話を戻そう(←村上春樹的な文章だとはおもわないかい?)
バスから見る風景がいつものそれとは違って興奮している私も、少々長い乗車時間に飽き、本を開いた。短編集、『幸福な遊戯』、その一番初めの短編「幸福な遊戯」。その中には私が常々思っていたことを、素敵な言葉たちで表現してくれていた。運命の糸をこじらせて生きる人々、人との関係上に存在するセックス、繋がり、寂しさそして家族の定義。本当に高校生の時に私が考えていた事たちを彼女は、本当に素晴らしく表現していた。“読みやすい”といってしまえばそれまでだけど、彼女の文章は、優しい感じがして読むのを止められなかった。この本に出会ったこと、彼女に会えこと、そしてその機会をくれた写真に感謝をした。

気がつくとそこは知らない場所だった。知らない間に恐怖の夜のバスによて私は知らない場所に運ばれていたのだ。O・K。道を戻ろう。


幸福な遊戯 (角川文庫)

幸福な遊戯 (角川文庫)