さぁ、どうやって生きてみようか?

shinka2005-09-10


合宿から帰ってきたら、後はもう“上映会”一色であります。
これからは、忙しいよ。僕は今回、上映会進行班なので、実質忙しいの当日ということになるのだけれども、それでも結局上映会は全員参加だから忙しくなるんだろうな。

それで、ずっと今年は作品を撮るかどうか迷っていたのだけれども、諦めては脚本書いて撮りたくなり、又諦めてはカット割りを考えて撮りたくなる。そうやって今年の出品の有無は二転三転と転がっていた。

一昨日ぐらいに新しいお話を思いついて、『良し、これなら撮れる!』『やりたい事もやれる!』となったのだけれども、やはり止めました。

理由は二つ。

まず、今年は例年よりも不安要素が多いこと。第一に我がエイケン初の試みである学外の会場での上映であること。これにより、今までのノウハウは一度消滅し、新しい環境への素早い適応・改善が必要とされる。第二に一回生不足による、労働力の低下と作品数への懸念。このようなことからも、私は例年以上に積極的に上映会に参加しなくてはいけないし、それに今年で私たちの代は引退する。だから、と言ったら失礼かもしれないが、やはり頑張りたいし、失敗はしたくない。悔いのないよう全力で挑みたいということもある。



続く理由としてはやはり『茜雲』を今年中に完成させなくてはいけない、ということがある。

この作品はそもそもどうして作られたか?という製作意義は、ずばり賞を取る為である。何故、そんな風に思ったのか、
一つに私が入ったことのエイケンは、賞など無縁であり誰もコンクールに出品しないという雰囲気があったのを壊したかったこと。監督によって様々な意図があるとは思うが、「そういう、賞なんか狙いにいって楽しいの?」と聞かれたことがある。これには頭来た。賞を取りに行く、行かないは別として、観客が自分の目的通りになったら楽しいに決まっているじゃないか。それに、他人を認めさせないで、何が自分のやりたい事だ。そういうのは処女作でしか許されない。他人を認めさせるスキルがある上でそういう大口をたたけっ!と当時の僕は思っていた。つまり、僕とって『茜雲』は一つの通過点なわけだ。
二つ目に私はエイケンに感謝している。こんなににもおもしろい、夢中になれる手段を教えてくれ、なおかつ素晴らしい人達・先輩たち、それらに対する感謝とエイケンがこれからも続いていって欲しいという気持ちから、『茜雲』というある種の原点回帰的なシステムを捧げた、というものである。
最後は、私の為である。もし、私が映画という職業を目指す場合、そこには武器が必要となってくる。誰の目からもわかる、それでいて迅速に確実な致命傷を与えられる武器、それは確かに紙面上のだけのものかもしれないが、それでも私は欲しい。他人が私を、いや私の力を認めてくれた証・・・賞が欲しい。
そして、時期的に考えるとこれがラストチャンスなのである。今年送ったとしてそれが発表されるは来年。つまり、もし、今年を逃して来年にやったとしたら、発表は卒業後となる。また、今年だって三月から動きだしているんだから、「来年でいいや」なんてしても絶対にやるはずがない。僕にはやることが一杯あるんだ。
早く先へ進まなくては。
何か俗っぽい考え方だということは重々承知である。しかし、ながら奇麗事ばかりならべて成れないよりは未だマシだ。
確かに、誰かが言ったように「映画監督とは成るものではなく、成っているもの」だ。つまり、証や賞ではなく撮っているという行為が、撮り続けているという行為の継続が結果的に監督であるとさしてくれる。これは、・・・・あれ、本当にそうだなと思う。
だから、私の先ほどの言葉は之に反した考え方とも思える。
なんだか書いていて、わからなくなってきた。

あぁ、どうしよう。

まぁ、とどのつまり“一つ一つけじめをつけていこう”ということである。