『ゆきゆきて、神軍 /原 一男』

奥崎謙三が刃物で人を刺したとする。君のカメラは流れる血液を映したとする。だが、それは本当に君の表現なのだろうか?」

全ての映像はドキュメンタリーである。スクリーンに映し出されている、カメラの前にあるものは全て事実なのである。
しかし、その被写体である人間はどうであろうか。人間は虚像そのものである。
嘘をつき、見栄を張り、体裁を気にし、本音とは裏腹に生きる。それは何故か。それは自分を見ているものが存在しているからである。
そして、カメラは見る・覗くという行為からは逃れられない。
奥崎謙三は一つのマスコット・パフォーマンスのように思えてならない。人々は自分ではない誰かとして彼を見る。そして、彼もまた見られていることを知っている。
全ては見ることと、見られること、無知なことと認識することとを敏速に往復し、その中心点を失い混沌に陥る。
しかし、あるの種の一線を越えないのは原の演出であろうか。
奥崎の目指すものと、原の作品とする演出が見えない場所でぶつかり出す。
彼が銃殺の真意を本人らから聞き出そうとするのと同じように、カメラも又同時にそのドキュメンタリーそのものの解体を試みている。この構図は凄い。
奥崎が、直ぐに警察を呼ぶのは何故だろうか。それは彼が彼の言うとことの責任を取れる立派な人間なのだろうか。あるいは、そうして刑歴を増やし、勲章を得ようとしているのだろうか。しかし、そのどちらも結局は自分以外の対象をもって成り上がるものであり、映画もまたカメラを見る者とスクリーンを見る者という相互関係において成り立っている。

むむむ。なんだろうかな。なんか俺違っている気がする。なんだ?




ゆきゆきて、神軍 [DVD]

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