『トニー滝谷 監督/市川 準 原作/村上春樹』

shinka2005-02-26

バイト四連勤がやっと終わった。なんだか良くわからないけど、総体的な意味合いでリハビリみたいに感じている。大学生の春休みでも、会社というものに慣れるものとかそういったもの。しかし、今日は久しぶりにバイトに遅刻してしまった。僕は結構抜けているので遅刻をするほうなのだが、さすがに社会相手にそんな甘えは通用しないから、結構気を張っていてそうすると目覚ましとか鳴らなくても、ガバって起きれるものなんだけれども、二月が毎日のようにバイトに入っていたから、なんだか行くことに慣れてしまって気が緩んだかもしれない。

さて、バイト終わりに又しても映画。
今日はトニー滝谷を見てきたわけだが、もうこれは見る前から興奮してしまった。だって僕の好きなイッセー尾形×村上春樹なんてもうそれだけで満足と言うか素敵である。今回期になったのはその客層の広さである。僕みたいな若い学生もいれば、OL、老夫婦、外人、中年の男と女とその年齢層はバラバラである。そういえば最近こんな体験したことがないなぁと思った。やっぱりその映画の種類によって、カップルが多かったり、婦女子達が多かったり、おっさんが多かったりと結果的になってしまうものだが、この映画のこの回は本当に多種多様だった。それはとても奇妙のように思えたし、又同時に至極当たり前のことであるとも気付いた。でもそれってステキやん。

映画の感想を書こう。
多分、ほとんどの人があまり満足をしていないじゃないかなぁと思う。
これを見る前日に、−多分ほとんどの客がそうしているように−家にあった原作を読み直していたのだが、これをどうやって映画にするのかなって考えた。そのお話はとても説明的で、映像的ではなくましてや映画的でもない。簡単に言ってしまえばある男の一生みたいのを物凄く単純化した伝記を第三者が語るといった形式なのだ。そういったことで、おおよそ映画はこんな構成なのかなとか、こんな手法になったら嫌だなと考えていた。
映画はそのほとんどが、その僕の“やってほしくはない手法”だった。主人公の親父を説明する時の写真、全体的なナレーション、変わらないカット割など、それは僕が前日に考えていたこんな“ありきたりで、当たり前な手法”は嫌だなという項目のそれであった。
が、しかしだ。それなのにどうしてかとてもこの映画を好きでいる。その予期していた嫌悪リストに対する曖昧なリアクションは前半の十分ほどで片付いてしまい、その後の一時間半はなんとういか軽い気持ちで、時々その映画の癖みたいなものに笑みしながらとてもよい気分で見れた。どうしてだろうか。

  • まず、一つにそれが今の僕が一番欲していたものがそこにはあったと言うことだ。それは映画の中の映像の役割である。うまく説明できないが、この映画は確かに全面的にナレーションをしているが、それは僕にとってはほとんど説明をしていないように聞こえた。そしてそれと同じ事で映像もまた説明をしていない。でもこれが映画の映像なのである。その写っているもの以上を感覚的に伝えることの出来る画が、映画の映像であって、この作品にはそれがあった。久しぶりにこういった画を見たなとそこで気付かされていた。そしてそれが今僕が一番望んでいるものなのである。だからこの映画の画は本当に素晴らしかった。部屋の捉え方や、空の写し方、顔を斜め後ろから狙う美しさなどと、それは映像監督なんて抜かしているそこら辺の綺麗さだけを目指した画とは全然違う、というかこれが映画なんだなと思える表面的意味合い以上の映像の説明量以上の感覚的な−視覚的ではなく感覚的な−美しさがあるのだ。

村上春樹の文章は−それを文章と言っていいのかはわからないが−ある意味で文学ではないし読むものでもない。彼の文章は音楽なのだ、そこには確かにリズムが存在する。だか彼の本をおもしろいとか、おもしろくないとかと批評するのは間違いであるし、またその表現はふさわしくない。だって音楽をおもしろいとか、おもしろくないとは言わないでしょう?だから彼の文章を性格に評価するには、好きか・嫌いか、良いか・悪いかというとても感覚的なものなのだ。多分、彼を好きな人はその内容や構成よりも以前に、彼が作り上げたその小さな家に−あるいは待合室に−自分がいることが心地よいと思っているはずだ。文章と文章の間に存在するそのリズムや雰囲気を楽しむ。それはとても音楽に似ている。だから、例えば何もしていないときや、料理をするとき、部屋を掃除する時に人々が何気なくかける曲と同じく、彼もまたふとした時にかける(読み返す)本なのである。

つづく