[考察]演劇と映画の違い

shinka2004-04-16

嗚咽にて書いたことの続きをここに書きます。
前に私は『演劇と映画の共通項が今の私の“映画”を広げてくれる可能性』と書いたが、それは間違いであった。注意すべき点はやはりその違いだったのである。なぜならば演劇と映像は表面的には同じものだからである。まずその鑑賞方法が同じである。ある一定の空間に入り、席に座り、暗闇にされ、目の前にあるライトアップ(映写)された点を見る。(仮にこれを芸術着席型鑑賞方法とする。)また、映画前半期においてその制作は、役者の詩的台詞、舞台・セットの使用などから見られる通り、簡単に言ってしまえば演劇をカメラに収めたものだった。これは私の解釈である。これについては反論もあるとは思うがひとまず置いておくことにする。このように演劇と映画は表面的には同じもの、兄弟、あるいは親と子のような関係にある。つまりそこに共通項があって当然なわけである。そして重要になるのは、その差異についてである。なぜならばその差異が映画が演劇から逸脱させ、第七芸術として一つの独立した芸術になった理由だからだ。
演劇と映画との違い。それは『実在が存在しないというリアリティがある』ということである。リアルの一般的定義は実際に存在する事だが、ここにおけるリアルとはどれだけ大きな衝撃を与えられるか言い換えれば『いかにその対象に自己投射できるか』ということである。なぜならば着席型鑑賞方法の芸術は“話を見る”鑑賞法であり、その理想形は物語りに自分を登場させる、つまり自己投射させることであるからだ。その場合におけるリアルの意味合いは一般的定義とはことなり、上記のようになる。そしてその自己投射への感覚実現は明らかに映画のほうが優れている。なぜならば、映画はその映写館には実在しないものが実在するからである。演劇には実際に役者が舞台で演技をする。しかし着席型鑑賞法において実在が存在することは非現実的であり、その点映画はその不可思議なリアリティを可能にする。それが『実在が存在しないというリアリティがある』ということなのである。それに加え映画には“強制という暴力性”を含んでいる。観客を一定時間暗闇の中で拘束するという強制は演劇でも映画でも同じことだが、“見せるものの選択”ということでは断然映画のほうが暴力的である。演劇には舞台が存在する。たとえ役者が一人で台詞を言う場面であっても観客は自分本位にその視線を黙っている別の役者やセットの一部分に合わせることが出来る。しかし、映画ではスクリーンに映し出される一点画しか視線を許されていない。また自己投射には大きな衝撃を要する。いかにその世界に引き込むか、今いる空間から抜け出させるかはその目の前にある世界の衝撃が大きければ大きいほど、今いる世界が希薄化し、目の前にある世界の比重を増すのである。そしてその衝撃という点でも編集・カット割・一点画などの特性を含む映画のほうが得意なのである。なにせ“暴力”なのですからその刺激的度合いもまた強い。
このようにして映画は演劇に別れを告げ、独自のスタイルを形成するに至った。これが演劇と映画との違いではないかと思います。
しかし、映像史的に言うのならばこの説はその映画発生時点において間違っており、その要素を含むと全く説得力のない意見である。