shinka2004-03-18

今日は一人でロケ辺。
といっても近所を自転車でグルグルまわったり、高いビルみつけたら登ってみたりしただけだけど。今回、火葬場のシーンがあって、それでその火葬場にある煙突が欲しいわけだけど、実際火葬場の煙突をとるわけにはいかない。煙だって不定期に出るだろうし、なによりも死者に祟られそうだ。怖いんだよ。という訳で、うちの近くに製薬会社の煙突があったので、そこを下見してきた。
煙突を中心に街をまわるというのは結構おもしろい。角度によって見える煙突は全く違う色、顔を見せる。高いビルからひょっこり見える煙突はまるで子供に忘れられたおもちゃのように物悲しく、ひらけた空間から見える煙突はわがまま顔で街を見守っている。それを僕はデパートの屋上駐車場や、路地裏や、線路なんかから見ていて、まだ見ぬ完成した映画に思いをはせるのだった。
帰ってからは家でもういっこのほうの映画、ドキュメンタリーの構成を考えた。初めそれはただの自分の好奇心の産物、ただの自分の知識の肥やしだったわけだけれども、作品にするという考えになったのは、今僕が考えている“映画ってなんだ?”という疑問からだった。映画ってなんだろうと考えてきて、それを知る手段として僕は映画を“二本”つくる方法をとった。まず今、みんなで撮影している『茜雲』これは“映画=嘘”という前提に基づきやっている。それに対してこのドキュメンタリでは“映画=それでも本当”という前提、つまりこの二作は映画ってなんだろうという一つの企画なのである。みなさんのなかにはドキュメンタリーは映画ではないという考え方を持っていらっしゃる方も多いだろう。しかし、ここにおける映画とは数多くある理論をひとまず置いといて、“人に見せる映像”と定義し、その上でこの企画をやっていることを御了承願いたい。映画を知るために嘘とか本当とかを確証するプロセスは回り道のように思える。しかし、今の僕がすることで、技術的にも知識的にも未熟な僕がすることで、その答えの一辺を得れればと考えている。全貌なんてまだいいし、無理だと思う。要は何に興味あり、なにをしたいかということだと思っているので、このようなことをしているわけである。
当初、ドキュメンタリーは程よく繋いで完成すればいいと思っていたが、素材を見ているうちにこれはひょっとして形にすればするほどおもしろいんじゃないかと思うようになってきた。多少“音”的に聞こえずらいという問題や核心めいた質問をしてないなど問題もあるが、やはり素材的にはおもしろいのでやれるとこまでやってみようという気になった。最近のドキュメンタリーの進歩・普及のせいもあるかもしれない。この普及はひとえにDVの普及にだと思う。一人でも簡単に撮れる。これがドキュメンタリーの普及の原因であると思う。その中で自分がどこまで出来るのか。多分いきこんでみたものそれ程いいものは出来ないと思う。しかし、それはその素材を使った一表現に過ぎない。それに比べこの世界は素材に満ち溢れている。要はどう切り取るのか。全く、自分で言っていて頭の痛い問題である。