現代社会が生んだ副産物

ふと思い、以前から行きたかった“漫画喫茶”なるものに行ってきた。朝の九時という時間のため、すいており自分は2人部屋の個室を一人で占領できることになった。自分は自分のスペースづくりが好きである。旅行先の宿でも、長距離バスの車内でも、それはそれは昔作った秘密基地のように色々な物を、これはここ、あれはあそこにといって風に置いて自分の空間を造っていくのが大好きのである。漫画喫茶はそれが出来た。ここは是非とも一人で来る場所である。
自分はそこで前から読みたかった「鋼の錬金術士」と古谷実の最新作を呼んだ。それにしても最近は錬金術ブームである。と勝手に思っている。自分も石を金にしてみたいなとか、賢者の石さえあればななんて思っている。錬金術がその摩訶不思議な結果にたいしてその中身が実は科学だといところがセクシーである。セクシーといえば古谷実である。私は二人エッチを全巻持ち、愛読しているが、あれはエロ本ではない。全然興奮はしないし、なるほど、なんて思って読んでいる。しかし、この古谷実の漫画ははっきりいってメチャメチャ興奮する。まるで一時の中学生のように興奮する。なぜだろうか。私が思うに彼は性に対して、変態でありながらとてもまっすぐに進んでいいるからだと思う。それは先ほどあげた中学生の興奮のような、俺はなんて変態なんだと思いながら、結構保険体育的には間違っていない行動のようなものではないか。しかし、まぁ変態なんだろうな。話を戻そう。
漫画喫茶では飲み物は飲み放題、お腹がすけば食べ物だって注文できる。毛布もテレビもゲームもパソコンも完備。いたりにつくせりである。なかにはシャワー室がある漫画喫茶もあるという。住めるな、と本気で思う。さっきから隣の部屋の人は眠ったまんまである。部屋には積み上げられた本、食べかけが残してある食器、あとグチャグチャしたものがある。あぁこいつがそうか。こいつがその住むという行動に近い過ごし方をしている。ほんと漫画喫茶は引きこもりのための空間である。なにも限定しているのではない。もはや我々のほ9とんどが引きこもりなのである。家で引きこもり、外に出ても漫画喫茶で引きこもる。こんな現状をつくりだしてしまったのは他でもない現代社会であろう。