『サッドヴァケイション』/青山真治

今日で学生証の期限が切れる。
ということは、今後は一般料金でお金を払わなくてはいけないということだ。
いきなり、壁が取っ払われ社会が襲ってきた気分がする。軟弱ものめ。

ということで、久しぶりに映画館へ行こうとする。
お金はあまりないが、派遣会社の場所まで行けばバイト代がもらえる。
電車でとことこ行く。降りる際に驚愕した。お金が30円しかない。あと150円足りない。
なんてこった、この小さなゲートさえ越えてしまえばお金が手に入るのにその金がない。
お金を得るためにお金を使わなくてはいけない。セックスするのにもお金がかかる。
確かに僕は金遣いが荒いが、何にせよお金がかかるこの状態もどうなのですか。(歩いて行けよ。)
申し訳なかったが、『切符なくしました』と言って通してもらう。駅員に滅茶苦茶疑われて情けない。

この学生最後の日になんの映画を見よう。
僕にとっては特別な日でも、映画にとっては何の関係もない。物語で選んだらかえって後悔するだろう。
だから、時間帯がちょうどいい作品を選んだ。それで『サッドヴァケイション』皮肉。


全くもって情けない話だが、今になっても映画を上手く語ることが出来ないのは自分の不徳の致すところだろう。
この映画を見たときに、そこで“何か物凄いことが起きている”ような気がしたのだが、それが何であるのか上手く表現できない。そうなってくると果たしてそれがそれ程のものだったのかも疑わしくなる。残念ながら往々にして映画と時間は比例する。先ずは具体的な場面から考えてみよう。


主人公の浅野が自分の母親の義父が経営する間宮運送で働く場面(この際にも相当な時間の飛び越し方をしているが)
母親に義父の経営する間宮運送を継いでもらえないかと浅野に打診する際に浅野は窓ガラスを拭いている。この際に二人は窓ガラス越しに対面しているのだが、浅野は母親の申し出に対して文字通り窓を閉めてしまう。にもかかわらず、その窓ガラスを綺麗に拭き掃除して最終的には母親側へ回り込んでしまうのだ!母親のことを憎みながらも愛されたいという気持ち、許してしまう気持ちを上手く表現した場面だと思える。


次に眠れない宮崎あおいが浅野と夜の事務所で話す場面(このシーンは作品上でも重要な転換期となる)
驚きなのが、両者とも奥と手前で同じ方向を向いて話している。監督自身が作り上げた登場人物(『Helpless』の浅野、『ユリイカ』の宮崎)が交じり合う点において、双方が青い光(これはテレビの光=DVDとしての過去の作品を思い起こさせる)の方を向いて、見つめて話している。この場面は驚いた。先ず、自身が一本に纏め上げることが出来るバックグランドを持つ登場人物をたかが30秒程度で話し言葉で説明していること。そしてその二人がテレビの光とも思える青い光を同じように見つめて回想すること。良く監督としてこのような演出が出来るものだなと驚いてしまった。


最後に普通で申し訳ないが、刑務所に面会する浅野と母親の石田えりの場面。
逃れられない母の力、女の執着心に愕然とする浅野、この場面で映画館の観客全員がグーとスクリーンに吸い込まれる感覚を覚えた。浅野の力か石田の力か、青山の力か、僕の未熟さか。
それにしてもこの場面でもまたして驚かされる。この浅野の苦悩以外、ほとんど登場人物を真正面からバストアップで捉えている。青山程のキャリアを持つ監督がこのような、怖いカットを良く撮れるなと驚かされた。それ程役者を信用しているということなのだろうか。
そう考えるとこの場面は作品の核と言っても良いシーンなのかもしれない。対面する二人の対話。この映画は大きく見れば常に誰かと誰といった二人の対面と対話でなり成っている作品だからである。



さて、話を作品全体に戻す。この作品を見て青山真治がわからなくなってしまった。
先ず“こんな撮り方をする人だったけ”という疑問が浮かび、直ぐに青山作品の演出において流れがないことに気付く。
常に流動する演出、しかもも見たこともない新しい演出といったわけではなく、既に存在している既存の方法論を自身の作品をもって体現していかのようにも見える。その点で言えば、この作品自体に一本の大きな流れが存在しない。まるで三本ぐらいの映画を合致させたかのように場面により演出方法がまるで違う。まるで、ベストアルバムかのように。
唯一つ、こんな映画を商業ベースにのせて、それなりに成功させるのって非常に羨ましい。


それにしても青山真治なんかお洒落になってない?禿げたロン毛のおっさんじゃなかったっけ。