限界と「物語とドラマの関係性」

shinka2007-07-30


実家から帰って翌日には撮影。
嬉しいことなのか、何をしているのか、わからない。
しかし、今日ほど自分自身に幻滅した日はないだろう。
僕は昔と比べて何一つ変わってはいないと実感してしまった。
撮影の後半、知り合いの喫茶店をお借りしての撮影で、予定していた通りに事が進まず一気にテンションが下がる。
具体的には店の外から撮影したかったのだが、ガラスの反射を考えてはおらず、どうしても外からだと店内が写らない。
そこで室内に変更して撮影を続行したのだが、おもしろくない。
また同時に脚本上のミスも露見してしまった。
これは「物語とドラマの関係性」についてなのだが、押井守曰く「物語が進むとドラマは停滞する、その逆も然り。この日二つを同時に展開させることは難しい」と語っている。長台詞、説明的台詞の多い押井ならではの発言だが、その押井においても話を展開する際の画面の停滞(静止した画面)を嫌い、キャラクターは動かさず背景を動かすことで“画面を持たしている”。例えば、360度パーンであったり、水族館であったり、夜の滑走する車内などのシチュエーション等がそうである。
僕自身においても停滞した画面よりは、相米のように動き廻る画面のほうが好きだ。もちろん、それ相応の必然性をもった上での話で。しかし、それは僕の脚本能力が低いせいか、あるいは撮影監督としての能力の低さが、全ての才能における凡さが、理想とはかけ離れた画面を見せ付ける。
例えば、ある話の筋を登場人物に話させようとすると−この時点の間違いなのかもしれないが−どうしても動きがなくなる。そして安易な状況設定として“喫茶店”というスペースを選択してしまう。そして、最悪なことに登場人物は喫茶店を訪れ、そして直ぐに退出する。全く持って必然性もおもしろみもない話の展開である。
この点に撮影の時点まで気付かなかった僕は大馬鹿野郎だ。

では、何故にジム・ジャームッシュの作品ではあんなにクールで面白い会話のシーンが撮れるのか。

なんとかおもしろいものにしなくては。