未だ

shinka2007-04-02


ちょっとだけ前の話をする。
僕にはいきつけのカフェーバーがある。自宅で一人酒をしない僕は、飲みたいのにだれも捕まらない時はいそいそとそこに出かけてゆき一人で飲む。
その日は、確か夕方近くでカウンターで紅茶か何かを飲んでいたと思う。
するとそこへ脚を引きずったご老人が来店して何故か僕の隣に座ったのだ。
老人はしきりに店員と何かを話していたが、声を悪くしているのか上手く聞き取れない。店員も適当に相槌を打つという具合で話を聞いている。僕はその時何か考えなければいけないことが先行していて、その話も真剣には聞いていなかった。
ふと店員が仕事を頼まれ、老人の前から離れた。すると老人は暇をもてあまし、今度は僕の方へ話しかけてきた。
正直、最初はまいったなぁと思ったが、そんなことはお構いなしに老人の話は始まっていた。
話は始まっていたと言っても、やはり声が擦れて何を言っているのか全く要領を得ない。
だから言葉の端々を繋げてなんとか話を理解するという形になってしまった。
要約すると老人は今日美術館に行って一枚の絵を見てきたらしい。僕は美術にはあまり詳しくないのだが、多分ナポレオンが馬に乗って今にも突撃しようとする、あの有名な絵を見て来たらしい。その絵がいかに素晴らしく、また勢いがあったのか滔々と喋るのだ。
話がひと段落すると老人は、今度は自分の身の上の話をし始めた。
この時には既に話の半分も聞いていない。老人と話すコツは適当に受け流すことだ。全部聞いていたら日が暮れてしまう。適度に相槌と言葉を繰り返せば宜しい。何故ならば老人は話を聞いてもらうことが目的だからだ。
しかし、今日ほど老人の話をちゃんと聞いておけば良かったと思った日はない。
老人は、三年前に脳梗塞で倒れ、一応命は取り留めたものの全身麻痺の状態にあったらしい。
自分はもう還暦をとっくに過ぎた身、余生を過ごす所の災難だった。しかし、そうして自身の最後を考えるようになっと瞬間、ふと昔見た一枚の絵が気になりだした。素晴らしく綺麗で、躍動感に溢れた迫力あるあの絵を思い返すとどうしてももう一度見たくなった。そこで老人は麻痺の体を押してリハビリに励んだという。リハビリは正直大変なもので月日は三年をも費やしてしまった。そして先月やっと退院した身であるというのだ。
そして、今日はその念願だった絵を見に行った正に帰りだったというわけだ。
この時には既に斜に構えて聞いていたことを忘れ、真っ直ぐに聞き入ってしまった。
正直、言葉がでなかった。適当な相槌も、繰り返しの言葉も何も出来なかった。
呆然とする僕に老人は一つ小さな笑みを作り、また来た時同じように脚を引きずりながら帰っていった。


死ぬ間際、浮かんだ一枚の絵に突き動かされ歩く老人。
絵とはそんなに力あるものなのか、また人はそんなにも可能性あるものなのか。
全く不思議な世の中なものだ。