『ゲド戦記/宮崎吾郎』

shinka2006-07-29


こういう大作となると大概みんなで挙って見に行く事になるんやけど、人と見るのがこんなににもキツイと思ったのは初めてだ。

それは結局、作品の評価が違うと疲れるということだが、鑑賞後の喫茶店で僕は少しやんなっていた。それは僕がこの作品を良かったと思うのに対し、他の全員が駄作と評価して色々言っていたからだ。確かに彼らが言っていることは良くわかるし、僕も駄作だと思う。けど良いと思っているものを目の前で悪く言われると落ち込んでしまう。そこで何か言って、みんなの評価を変えることが出来れば僕もシネ・フィルに成れるのかな、なんてくだらない事を考えてしまった。
 
はっきり言ってストーリーも、絵も動きも、やる気もてんであかんかったと思う。しかし、この作品の背景を考えてしまうとやっぱり良かったなと思ってしまう。だから正しい見方ではないのかも知れないし、この作品が残るのかと問われればもちろん残らないと答えるだろうが、だが見おわった後の変な幸福観がその考えだけになるのを阻止してくる。

僕が良かったなというのは本当にラスト近くのワン・シーンに集約される。それは崩れかかる城からアレンがジャンプし、それをテナである竜がキャッチするシーン。ここの流れが天空の城ラピュタのシータとパズーとのそれとタブって見えたのだ。しかし、決定的に違うことはラピュタでは城からジャンプし助けられるのがシータである女の子であるのに対して、ゲドではアレンである男の子なのだ。つまり、ここで両者を比較するのならば全く逆の配置に転換されていることになる。そしてこれは極めて重要なことなのだ。それは宮崎アニメひいてはジブリアニメにおける女の子の在り方を真っ向から否定するものであった。宮崎の描く女の子は実に魅力的である。それは少女でありながら何故か妙に艶めかしい。エロいのである。カリオストロ未来少年コナンラピュタしかり、女の子は少女でいるのに同時に大人ぽく、そして物語の鍵であるのにとても華奢で弱い。ジブリジブリたるのは、この女の子がいたからである。しかし、ゲドのテナはどうであろうか。彼女は顔に痣を残し、そして相手の男の子を助けられるほどに強い。(しかし、そうなるとハウルはどうなるのか。ハウルはどうしようもない男ではないか。保留)

その意味で言えば、この先品は極めて意味のあるものである。仮にジブリが吾郎以外の監督で作品を作って大失敗したとしよう。しかし、その場合の評価は「やっぱり、宮さんじゃなきゃダメね」とその作品をジブリから除外視してしまうことだろう。だからこそ、吾郎が、もっといえば除外されない宮崎家の血が必要なのだ。だから鈴木Pは吾郎を監督として祭り上げた、だって考えてみない。アニメを全くやってこなかった只の社会人がどうして国民的、世界的な舞台に立たされなければならい。他ならねジブリのためである。宮崎の親父を殺すためである。そうしなければ、ジブリに未来はなく、いつまでも過去に捉われてしまう。だからこそ、息子=王子である吾郎が、親父=王である駿から魔法で鍛えられた剣=ジブリを盗み(あるいは借りて)、親父を刺し殺したのだ。本当に良くやったと思う。考えられないほどのプレッシャーだったことだろう。

だから私はこの作品を見終わった後に幸福観を覚えたのだろう。
まぁ、こんな結果論・後付けなんかはいくらでも出来るだろうし、ここでやらなくても誰かがやってくれることだろう。批判も甘んじて頂く。 
しかし、ゲトに幻滅した人に一つだけ聞きたい。
それでは何故あなたはこの作品に期待などしたのだ?一般人が映画なんて撮れるわけねぇだろうがアホがっ!