彷徨う

shinka2006-02-15


いつも流行している問題を考えている。
それはとても恥ずかしい事だ。



こっちはこうだ、どうにもならんよ


この前電車に乗っていたら中年が車両内で(携帯)電話をしていた。
とても醜い状況だけど、たまに僕も短いとしてもしてしまうので何とも言えない。
ただ少し思ったのだが、
良く子供は親の背中を見て育つなんて言うけれど、
現代では大人が子供の(新しさなんて誤解される)失態という背中を見て、あるいはそれに甘んじて生きているのではないだろうか。
もしかしたら、車両内で電話をしてもしょうがないという状況に便乗して、この人は会話しているんじゃないかと。
私は電話なのにペコペコ虚空に向かってお辞儀をする男を見ながら、そんな事を考えていた。
中年は僕のほうを気にしながら電話をしていた。
おじさん、僕は決してあなたを攻めようとして目視していたわけではないのだよ。
ただ、あなたが何なのか考えていたのだよ。



そこのおまえに用がある!


ちょっと前から所謂「脱力系」なんてものが流行っているけど、
うつ病の子には絶対に「頑張れ」なんて言っちゃいけないようだけど、
自分の話と自慢ばかりする人は嫌だけど、
最近ちょっとそれでいいのかとも思っている。
というのは高校か、それ以前の中学くらいからもう僕は人とちゃんと勝負をしていない。
まず、スポーツをやっていないし、大学という環境もそうだし、また部活も文科系だし、
ここ暫く人と競ったり、争ったりしていないのだ。
つまり、僕は“勝ち”や“負け”を味わっていない。
そりゃあと少しで人生における勝ち組や負け組みなんていうフラッグを審判されるのだろうけど、ここから先そんな風な曖昧な勝敗ばかりが待っているような気がする。
曖昧というのはつまり当人にしてみれば、「いや、俺は負けていない」とか幾らでも言い訳がつけてしまうことだ。
スポーツにはそういうことはない。明確に白と黒が分かれる。
他にどんな理由があろうとも区別はしっかりとされる。
最近の子は極端に負けることを嫌う。
怒られることを、非難されることをとても嫌がる。
かくも僕もそうだ。
勝ち続けることを求め、そのため勝負をしない。
現にそういう状況は求めれば、可能である。
そして、それを肯定する社会もある。
だけれども、勝つというものは本当に気持ちが良い物だし、
負けるということはそれ程恥ずかしいことではないと思う。
平和ボケと言ってしまうとチープだが、
人と争わないことをその意味以上にリスペクトしてしまうと
そこに残るのはボンクラである。
いい意味においてハングリー精神は持つべきだし、
ちゃんと勝負をしていかないと駄目になってしまう。


スタートラインにクライチングスタイルを取るあの瞬間は
本当に逃げだしたい程に緊張と不安が付きまとう。
けれど、確実にどんな時もピストルは鳴らされているのではないだろうか。
あなたが気がついていないとしても。