映画の向こう

shinka2005-11-18

上映会も終わり、来週には執行部の引継ぎを控えている今、僕は何をしているのだろうか。
今、僕はもっぱら『茜雲』の編集に追い込みをかけています。
締め切りは12月1日。これは今年のPFFの応募締め切りです。
もともとコンクールを意識した今作は色々な所に応募しますが、それでもその最たる物・最終目標は打倒・王者PFFで御座います。
後、10日間程しか日にちがないのにも関わらず、まだ70%ぐらいしか出来ていません。
ハッキリ言ってヤバイ。
他人の所為にするつもりは毛頭ないですが、それでも原因を挙げるのならば、やはりPCの大幅な遅れと、上映会があったためでございます。

けれど今回を逃すわけには行かない。何がなんでも今月中に完成させてやる!



で、この映画の中で主人公三人が先輩宅を訪問し、カメラを借りるというシーンがあるんですが、これを編集で見直していて、この素材は物凄いぞ!と思ってしまった。
映画的とか画面的にとかではなく、正確に言えば自分の性の悪さに驚いたのです。
このシーンの演出は殆どなく、二、三の注文で後は好きに話してもらってカメラを止めるのもこっちの指示があるまでの長い撮影でした。
こっちの思惑としては自然な演技は勿論な事、脚本以上の台詞・展開を期待していました。
というのはこの先輩、設定と実際がほとんど一緒であり、どんだけ自由にやろうがそれは同時に映画の先輩になってしまうという仕掛けを用意しときました。
が、その実際取り終えた素材は私の予想を遥かに超え、重く、深いそして彼自身の声まで映し出しているナマナマしいものになってしました。
なんと言いましょうか、映研がこれまで抱えてきた、そして同時にこれからも抱えて行かなくてはならない問題。もっと言えば文化会サークル全体に言える事にもなりましょう。
ふとこの素材を見て、阿部和重の『アメリカの夜』を思い出しました。
私はもしかしたら、とんでもなく酷い事(演出)をしてしまたんじゃないのか。そうやって少々自分の鈍感さと冷酷さに嫌気が指しました。
素材というものはなんと怖いものでしょうか。アニメでは以ての外ですが、実写のそれもDVという奴は凶器です。私達が用意した以上のものまで映し出してしまう。
いや、DVは悪くはない。あやつは唯の機械です。すべての所作は人間。彼らはすべてのものに対して公平に接しているだけだ。物事に重さを感じるのはそれを切り取ったキャメラマンと、読み取った観客という人間という生物だけなのだ。
意図の点で言えば、大満足。しかしこの『茜雲』という作品がその素材を収めるに十分なキャパシティを持っているかといえば、そこは悩んでしまう所。押し出せば、作品はもっと広く深い問題も扱える可能性もあるが、同時に作品の中で一箇所だけ浮きだってしまい全体を壊しかねない諸刃の剣のような化け物かもしれない。

私は今、締め切りに追われながらも、このシーンを切れないのです。
何を見せ、何を隠すのか。


ニッポニアニッポン (新潮文庫)

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