『スターウォーズ エピソード3 シスの逆襲』 

shinka2005-07-27


見てきました。バイト終わりにふと思い立って一人で行ってきました。


正直中盤で寝てしまったので、完全にというわけではないのですが感想を書きます。
さて、寝たと言ってもそれは純粋におもしろさに繋がるわけではなく、実際は前の日あまり寝ていなかったからなのですが、それでも寝かしたというのは一つの事実として考慮したほうが良いのかもしれません。

さて、こういったシリーズものの映画というのは一体どういった風に見て良いのか?という問題があります。一つにシリーズ全体を評価すべきだという考え方と、やはり作品一本ずつを評価してゆくべきだという考え方が出来ます。そして、この作品はそういった問題をとても考えさせるものでした。とういうのも、私はおもしろかったとは思いますが、良かったとは思わなかったからです。ここでは「おもしろさ」とか「良かった」についての定義は避けます。そのままの意味で解釈してください。


この映画、はっきり言って全てが山場で、おもしろくないシーンなどというのはあまりないのですが、それでもこの作品はどうしても消化試合的なものに感じてしまってなりません。シリーズもののラスト、しかもラストでありながら続編がすでに存在しているという状況下、登場した全てのものに帰結点を与えると言うか、つまり理由をはっきりさせる事がこの作品では宿命付けれています。そして、それを見事にやってのけている分、全てが映像としてしか成り立っていない。特にそれを表しているのが、ラストのルークとレイア姫の末路のシーン。ほとんど会話はなく、ただ映像=情報だけで物語を展開させ、そして続編へと繋ごうとしています。あまりにシンプル過ぎるこの構成は、なんらかの考えがあるものとも取れますが、私個人としてはお粗末というか、ノーセンスにしか感じ取れませんでした。あれは唯の情報の羅列であります。

また人が全く描かれていないと思います。こんな事を言うと怒られるかもしれませんが、生身の人間だけで話します。ヨーダやその他のクリチャーもいますがあれも言わばデータ化・象徴化された登場人物なので省くとこの作品、主要人物がアナキンとオビ=ワン、パドメになります。しかし、この三人の演技が如何せん全然伝わってこない。アナキンとパドメは、(ナタリーはレオンからの名女優だとしても)、やはり経験が薄くほとんど新人です。だから見ていてお遊戯会レベルで少々冷めてしまいます。オビ=ワン扮するイワン・マクレガーはさすがと思うシーンもあるのですが、やはりやる気というかやりたくなさそうに感じれてしまいます。
さて、問題はこのような役者に対して、演出が甘いというか全然捻っていなくてお決まりのルールにのとってやるもんだから、悪くはないんだけれども、画面上に写っている以上のものが全然伺えなかった。今作及びエピソード1〜3のメインテーマは「何故、あのアナキンがダース・ベイダーとなったのか」を説明するものであり、当然それには人間・アナキンの心情の変化やら葛藤なんかを描かなくてはいけないのに、やはり全てが段取り良く、プロセスに則り行われてしまって、なにかこう煮え切らないものがありました。

このような感想を踏まえて考えるに、やはりこの作品は1にも2にも過剰な情報という言葉で片付けることが出来る。私は映画とは「人」を軸にしたものだと思います。何故ならば、被写体はどうであれ、映画は人間にしか理解できない表現行為であるからです。映画とは象徴=映像の連続によって成り立ち、それは人間の映像経験を基本として初めて成り立つわけです。それがあって我々は別のショットの人間が話し合っていると解釈でき、ないし時間軸を理解・編集することが可能であるのです。犬や猫、などの動物にも理解できるんて言っている奴の多くはロマンチストか映画に対して付加価値を与えすぎているのだと思う。
話を戻そう。


多分、ラストシーンを批判すると絶対にあれは最高でしたよ!と反論されることはわかっていた。それはあのシーンを見ているときに「あぁ、きっとみんな感動するんだろうな」ということがファン対しても製作者にたいしても伺えたからである。
だから、要するにブランディングイメージがこの作品では確立されてしまっている。そしてそれによって、この映画はもはや映画を超えイベントになってしまっている。
だって、どう考えてもスターウォーズの盛り上がりぶりはおかしい。尋常じゃない。それはすでに映画がまかなえるキャパを超えて、ある種に信仰に近い熱狂ぷりである。それはエピソードシリーズを作る前段階から既に確立されてしまっている。だから、はっきり言って作品なんてどうでもいいわけです。話が続くこと、そしてそれを伝承されているという事実が、その満足がスターウォーズという映画ではない何か社会現象なのではないかと思います。
今、わかった。僕がスターウォーズをあんなににも再放送しているのに、一度として全部見れないのは、結局つまらないからだ。結局、二時間近くを使用して、その全ての力を“話を進める・伝える”事だけに集約しているのが、僕にあの眠気をもたらすのだろう。要するに映画じゃなくてもいいんだもん。本でいいじゃん。
ラストシーンはそういった状況をまさに表していている。僕はなにも会話をしろとか言っているんじゃないんです。ただ映像だけで済ませているのが気に食わないだけ。この作品はそういった構成だとか演出には一切力を入れてなくて、話を確立・実現しようと躍起になっている。だからパターンが王道的であり、それがこのご時世では逆に新しいというか、もはやワイプなどの使用が専売特許になっている。
私が思うにあのラストを満足しているのは、言わばスターウォーズ全体にであり、また感謝であり、そして余裕な行為である。