『おもひでぽろぽろ  /高畑 勲』

久しぶりに見返してみる、自分が案外この作品の内容を覚えていることに気づく。見る前ににはどういった話かあまり思い出せないでいたが、見てみるとやはり何度か見ている事を覚えていたり、次の展開・台詞を知っていたりして、やはりジブリは国民的映画だと再認識させられる。

この映画は主人公タエ子が会社を長い有給で休み、その間親戚の田舎の家の農業を手伝い行くという軸に、小学五年生の自分がついて来て絡んでゆき、大きなタエ子と小さなタエ子が交互に目まぐるしく交差するという話である。“昔”と“今”はパッパパッパ変わってゆき、大人であるタエ子はそれを大人っぽく笑いながらも、未だそこから抜け出せないでいるのだ。

さて、先ほど“見てみると案外覚えている”と言ったが、実はそうやって思い出せる殆どの部分は主人公タエ子の小学五年生の描写のときだけで、現時間軸である27歳のタエ子のシーンはほとんど覚えていなかった。銭湯へ行く話、パイナップルをどうやって食べるか分からない話、そして分数の割り算の話・・・。考ええ見れば、小さいときの僕らにとって大人のタエ子(以下、大タエ子)の部分はいらないのである。前半部分における大タエ子が田舎へ行くにつれて過去を回想するというのは、観客である大人たちが自分たちの小さいときに戻れる・帰れるよう補佐する役割であり、象徴なのである。そう、この映画は人生が不安定ではなく、確立された大人達への映画である。今を生きている、思い出なんて数える程しかない子供達にとっては大タエ子の機能がなくとも、すでに小タエこの世界にいられるのだ。だから、子供たちは大タエ子の部分を省き、小タエ子のエピソードに共感と、あるいはひょっこりひょうたん島などの時代差異を感じながら見ている。だから私は、大タエ子の部分を覚えていなかったのではないだろうか。

さて、この映画の前半部分はそういった回帰機能を果たしていると同時に、あの60年代(正確には映画の中では1965年)の時代を懐かしみ、そしてかなりの説明口調で紹介している。それにしても何故、人はあの時代を取り上げるのだろうか。『モウレツ!大人帝国の逆襲』でも然り、あの時代を懐かしみ、良きする作品・流れは多々ある。しかし、それらの作品を通して時代を感じることは出来ても、本当の意味で理解できているとは思えない。
話を戻す。そういった意味でのこの作品・タエ子は80年代大人たちの象徴であり、60年代・思い出の偶像である。
小タエ子のシーンでは画面の四隅は白く消えてる。だからこの小タエ子というのは単に大タエ子の小さい頃なんかではなく、我々の幼少期の象徴として、誰もの“昔”という全てを表現する群像として描かれているのだ。
だから、回想で使われる台詞は全てどこか耳に残り、反芻したくなるようのものばかりだ。それは、物事の事象の説明と感想が端的に、また客観的に捉えられているためであろう。

しかし、後半部分になると、小タエ子のでしゃばりは影を潜め、とことん大タエ子の話になてゆく。そして、それとあわせ田舎という存在、都会という場所、農業・百姓という事をやはり説明口調で紹介する。

クライマックス、タエ子が田舎へ来てくれと言われて、逃げ出したとき、ふと昔握手してくれなかった同級生の思い出と出会い、自分はあの時と何も変わってないと嘆く。思い出は、過去として存在はせず、今という自分と存在し、重なり始める。今まで、振り返れば、そこに昔の自分がいたことを喜んでいたのに、急にそのことが怖くなった。しかし、田舎の青年トシオの忠告によって、その思い出を違った解釈で見れることに気づく。しかし、それでも「私は彼に罪悪感がある」と言い、その解釈と自分の解釈とを対比させる。思い出とは決して自分ではないのだ。思い出とは事実であり、幻想であり、私であって私ではない。タエ子は都会に帰ることを止め、田舎に再度戻った。そして、それを応援したのは他ならぬ、昔の自分たちなのである。そして、トシオのもとへ大タエ子を案内した小タエ子は、もう大丈夫だという感じで、現在から離れる。
このラストの描写は一体どういった演出だろうか。決別か、調和か。思い出とはなんなんだろうか。助けられるものであり、又別れなくてはいけないものなんだろうか
むむむ。


おもひでぽろぽろ [VHS]

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