極私的映画論『半径1mの自分発信』 −現代におけるアートギャラリーとブログの公然性について

shinka2005-06-07

  • 現代におけるカフェ型ギャラリーの現状

アートギャラリーに行ってきた。
と言っても、キチッとしていて絶え間なく写真や絵画を飾っているところなんかではなく、最近急増してきている“フリースペース”型のギャラリーに行ってきたのである。ことの起りはうちの部で批評会をすることになり、そのために他にイベントなどで上映会などをやっているところを見学に行き、参考にしようという魂胆であった。まぁ映画研究部で批評会をやることになった経緯と意義については今回は避けることとして、内容はその訪れたギャラリーについてである。

今回訪れたギャラリーは計三店。動物園前から上がり、北堀江、谷町と尋ねていった。
さて、ここでフリースペース型のアートギャラリーを説明するのと同時に定義しておこう。ギャラリーと言っても我々が知っているお難くて、真っ白な四角い箱なんかではなく大体においてそこは通常ただの喫茶店である。いや、果たしてそこを喫茶店と呼べるものかどうかはわからない。最低限の飲み物と食べ物しか置いてなく、これらの出店条件をしらないが、なんらかの資格をちゃんと取っているかも疑わしいところもある。仮にそこをちゃんとした飲みものを出す喫茶店だとしよう。そうしないと話が進まない。通常喫茶店をしながら、奥には決して広くはないスペースが広がり、そこでイベントと称して月に二十回程の回数で演劇や映画の上映会、ダンスやライブなどが催される。そのためお店入り口付近には所狭しと団体やイベントのフライヤーが並べてあり、大体においてお店のフライヤーも置いてある。こういうところに置かれているお店のフライヤーの文句は次のようなものだ。「自由で」、「ゆるく、楽しく」、「続々企画中」。イベントサークル様様のキャッチコピーだ。いや、イベントサークルである。
さて上記の条件をまとめると
カフェ型ギャラリー=喫茶店+決して広くはないスペース+イベント+自由でゆるく=イベントサークル
となっている訳である。話を戻すと私のこの一連の見学を兼ねた訪問はその批評会をどう進行していけば、効率よく、行事として展開出来るかを観るものであった。残念ながらイベントは月1か二ヶ月に一度のペースで展開されているため、実際にその現場を訪れることはできなかったが、そのために一通り飲み物を飲み終えると店員にイベントについて尋ねることにした。大体において、どこのギャラリーも同じ内容である。
上映会をイベントとしてしか考えておらず、実施するだけで満足であり、問題の内容については重点を置いていない。そのため、上映会は作品を上映するだけに留まっており、その後食事会などの時間を設けるものの、上映作品に関する作品は愚か映画について語るということも無いらしい。上映会は他のイベントと同列とされており、内容・執行についても個人単位に負かされている場合もある。確かに偶々そういったお店しか訪れなかったのかもしれない。もう少し経営者の熱い思いによって実施されているイベントもあるだろう。しかし、ながらこういった形式のギャラリーがあることは事実だし、又思惑ある上映会についても月に一度あるかないかの現状を考えてみれば、それが一つのイベントに過ぎないのではないだろうか?ここにこうも考えを文章と列ねながら自分自身でもなにが言いたいのか良く分からないが、少なくても訪れて思ったことは“がっかりした”ということである。

  • ブログの公然化について −ヒーローに成る事を求められ、ヒーローに成れなかった僕達へ

現代、ブログをつける事は恥ずかしい行為ではなく、普通のことのようである。
私が高校生の時は、ブログはネットオタクがやっているものであり、その内容も痛くて暗いものであった。現に私が高校のときにつけていたブログは、ネットオタクではないものの、やはり暗くてナルシストと言わば一つの掃き溜めの様なものだったと思う。
しかし、現状はどうだ?誰もがブログをやり、その公言についてもまるで名詞代わりのようにURLを教える。もはや、ブログは恥ずかしいものなんかではなく、個人を紹介する絶好のスペースとなりつつある。この原因として某IT企業の一連の活躍(あるいは失態)や、又オタクを主人公とするあの○車男のの文庫化及び映画化によるネットオタクの公然化などが挙げられる。しかしながらこれらは、理由になっても原因までには至らないのかもしれない。根本的原因をみるならば、「なぜ人はブログをつけるのか?」この問題を考えなくてはいけない。なぜならばこのブログ公然化の原因は、人がブログを根本的には欲している事がもっとも根源にあるからではないかと考えるからである。
人は何故ブログをつけるのか?もし日記代わりにするのならば旧来通り、紙面上に書き連ねるもので良いではないか?違いはなにか?それはネットによる配信である。つまり、自分以外の第三者が読むという可能性がある。そしてそれを利用者は暗黙のうちに了承し、又望んでいるのだ。そう考えてみるともはやブログに書かれている内容は日記ではない。なぜならば日記は自分以外には読み手はいないということが大前提としてあるからだ。ブログは日記などではなく、自分という人間を知っていもらう自己発信の場であるのだ!例えばHPにしてみても、以前までの個人的なHPには寄り代があった。大好きな有名人や漫画あるいは芸術という媒介があり、個人はそれを紹介や情報量を増やすことを目的としていた。しかし、ブログは−確かに趣味の実行を内容目的とするものがあるが−寄り城などはいなく、主役・題材は自分自身なのである。
では何故、個人レベルで人は自分を紹介・宣伝したいのであろうか?有名人ではあるまいし、一般市民の凡人が自分の生活や思想を配信して、恥ずかしくないのだろうか?そんなにおまえは特別なのであろうか?
実は特別なのである。これ極私的な理論なのだが、現代の人間は自分を特別な存在であると無意識的に思っている。その原因は我々が触れてきた教育とアニメのためであると考えている。アニメでは我々と変わらない凡人な少年が潜在的な力により巨大兵器を操り、主人公は選ばれし者のように扱われる。教育についても親たちは戦後・バブル期を向かえ、価値観が麻痺し自分の子供についても自分かそれ以上の活躍を望み期待をかける。“やれば出来る子”などと言われて子供たち(チルドレン)は自分が選ばれた特別な人間で、そうでないのは自分が本気をだしていなからである。と考え始める。又、現代の人間は人の揚げ足を取るのが上手である。自分からは何も新しいことや案を発すること無いくせに、人の意見については上等で見事な反論をする。それがネットによる作用なのか、あるいはそうであるからネットが普及したのかは置いといて、そういったこともブログを発展させた一つの要因であると思う。あくまでもこれは仮説であるか、この思考を現代の人間が持っていたとして、それがブログの急増と公然化の原因ではないかと思っている。
僕は特別である。特別な状況にいないのは自分が本気を出していないからだ。でも、この凡人扱いは我慢ならない。だってぼくは、特別なのに何故人と同じような接待を受けなくてはいけない?だから自分で特別な場を作り出す。それがブログだ。
あくまでも仮説であり、全ての原因がそうであるとは言えないが、おもしろい案ではないだろうか?

  • ギャラリーとブログの共通点 −半径1mの自己発信

さて、話は続く。では何故、ブログをつけている人はあまりその事実を教えたかがらないのか?理由の一つにはやはり、旧来の「ブログは恥ずかしい事」というのが残っていることも考えられる。しかし、他方としては第三者の介入を防ぎ、自分の世界を保つためである。ちょっと待て?ならば個人的に日記をつけるという過程に戻るではないか?いや、そうではない。実は利用者はネットという広大な電子の渦に自分を晒しながら、自分を攻撃するものの存在を否定しているのだ。仮に自分のブログに対して加害者が表れたとしても、ネットという架空の世界の住人としてその存在を消す。そしてそうでありながら、自分では世界と繋がっているのだという感覚を安堵として欲する。利用者は、読み手がいようがいまいが関係なく、ネットに挙げて世界と番っているという事実だけを欲しているのである。だから人には加害者になりうる新規参入者を増やそうとしなく、又現実に自分と触れ合っている知人はその攻撃力・ダメージは甚大ではにので絶対に避ける。しかしながら、そうやって部外者を排除しながら、逆にレスポンスがないと寂しがり、不満に思いちょろっと「俺、ブログやってるんだけど」などと公言し、観客を増やす。それも自分に被害を与えそうに無い人である。全くわかり安い構図である。
つまりブログの急増と公然化に理由は、人が何故ブログをつけるのかに至り、その理由は、
自分は特別⇒自分が特別である世界を構築(ブログ)⇒二重の虚構で自分の安全を守る(ネットであるのに人には教えないという矛盾)⇒世界と繋がっているという自己満足⇒悩み解消⇒ブログ利用者の急増⇒ブログの公然化

実はこの一連のプロセスは最近のカフェ型アートギャラリーの利用目的にも当てはまる。然程、広くもないスペースを利用し、大した宣伝もなく自分を発信するイベントを実施する、それにはあの“フリースペース”型のアートギャラリーという環境は打ってつけである。オーディションも審査もなく金と時間さえあれば利用でき、客は自分を応援する優しい観客ばかり、世界を壊すような部外者は文字通り部外者扱いをされその力をなくす。
今や世の中は芸術家ばかりである。いい意味でも、悪い意味でも。