『ヴィタール /塚本晋也』

shinka2005-02-18


『パッチギ』を見に行こうとしたら、終わっていた。その検索時に今日で『ヴィタール』が終わると知ってそそくさと劇場に向かう。

この映画を見終わって僕はまず、二つの自分の持つ大きな勘違いに気付いた。

一つ目は浅野忠信の捉え方。最近留まることなく映画に出演しまくっている彼だが、自分はずっと彼は演技が下手だな−というよりは演技をしていない−という感想を持っていた。彼の場合、その存在感だけが突出し、役者というよりは浅野忠信という人がいつもスクリーンの中にいた。しかし、この作品では彼というものを捨てさせられている。彼は言わばガラスのようなものだ。そこにおいても唯後ろにある風景をそのままに写している、空虚感という言葉が当てはまりそうなそんな印象がある。しかし、今作ではそのガラス板である彼に極彩色の背景(光)をあて、彼の中にある繊細で、奇跡的で、神秘的でもある屈折により浮かび上がる光を見事にフィルム上に焼き付けている。その光は本当に美しくまた多様であり、それに気付いた時なんて凄い役者なんだ。そしてそれを確信犯的に又、楽しんでいる塚本に驚愕した。

二つ目は死の認識について。この作品は、記憶をなくした主人公が恋人であった人間を解剖することで自分の記憶を取り戻してゆくというのがストーリーになっているのだが、作中主人公が父親と対話するシーンがある。「いや、違うんだよ・・・記憶、じゃないんだよ・・・そこにはちゃんと俺もいて・・・」と語る場面。ふと思った。人が死ぬと言うことはその人が自分から離れて消えてしまうことではなくて、僕らが死者から離れて忘れてゆくことではないかと。死者は進まず、そこに留まる。だけど僕らは「(博史)まだまだ生きなきゃなんないから」進まなくてはいけない。そんなことを考えた。

それにしても何故この作品は今までとは違ってカラーにしたのだろう。この作品は全体を通して三色に分かれている。真っ青な青と、生ぬるい赤、そして現実の色。とりわけ目に付くのはやはり青と赤との使い分けであるが、見ていてふとこの色は人間の体に流れる動脈と静脈のように感じられた。それぞれが実際に青と赤に分かれているかは知らないが、僕らが良く見る解剖図なんかでは確か青と赤で記されていた記憶がある。関係ないかな。それにしても、実際の色が場面的には“死んだ恋人がいる世界”に使われていたのは皮肉なものだ。

あと首を絞めるシーンがたくさんあったけど、セックス中に首を絞め合うという行為ってたくあるのかね?俺だけじゃなかったんだ。

そしてラストシーン。恐ろしいくらいに素晴らしく素敵だった。あの暗転して音声だけが聞こえる場面。あの時会場全体が一つになったような、人が椅子が建物がスクリーンに一直線に吸い込まれてゆくようなあの感覚。大好きだ。