理解するということは、絶望するということだ。

shinka2004-12-09

最近、とことん映画について考えたくなくなっていて、文学に逃げている。文学といってもいつも通り村上春樹なのだが、久しぶりに読んでみると軽くショックを受けた。今まで素敵な横文字だと信じていたわけのわからない言葉達が理解できるのだ。彼の文章のほとんどは冗談ぽい例え話みたいな感じで「彼女はそこにいた。まるで今海岸から打ち上げられたアシカのようにひっそりと存在していた」みたいなことを言う。多分、これが僕のよく理解できない例え話の癖の元だと思うんだけど、高校のときに春樹を呼んだときにはその例え話に出てくるほとんどの横文字を理解できないでいた。それは時には60年代の音楽であったり、本当に聞いた事もない教授や伯爵の名前だったりだとかするんだけ、それらは知らなくて十分素敵だった。きっと素敵なものなんだろうと信じていたし、それらはまるで喫茶店にかかる心地よい無表情なBGMのようにただそこに記号として存在しているだけで十分魅力的であった。しかし、最近読み返してみると、所々ではあるが、理解できるところがあったのだ。しかも映画でだ。
「彼女の町と、彼女の綿羊(カンガルー日和より)」−それはまるで一昔前のヌーベル・バーグ映画みたいな感じだった。〜そのヌーベル・バーグ式テレビ・カメラは−
『チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏(カンガルー日和より)』−そういうのってコミュニケーションの分断というか、分裂というか、すごくジャン=リュック・ゴダール風だ。
といった具合だ。高校生のときの僕には“ヌーベル・バーグ”も“ゴダール”も存在しなかった。そこにあるのはその言葉の響きと素敵な名詞だというアホな解釈である。でも、大学生になってタバコやら北斗七星やらを知った僕には当然それらの言葉も知るようになった。そうなって初めてその文章の意味を知る。それは思い描いていた素敵な比喩表現なんかではなく、軽く批判めいた少々レベルの低い冗談であった。それは軽いショックであった。