shinka2004-06-05

昼ごろ、携帯のバイブ音で目が覚めた。
誰だよ、と思いつつも携帯を取る。忘れてた今日はこの前言っていた映画祭の結果を電話で知らせてくる日。やっと冷めてきた頭で時間を確認するとちょうど予告どおりの時間帯である。受話器の声は女の人、やはり映画祭の実行委員長からだった。「おめでとうございます。『赤い傘』が審査員の点数が最も高かったのでグランプリとなりました。それでそのコメントなど頂きたいのですが?」 「・・・・・・・・・・。んあ?あっ・・・・えぇ?」「いや、コメントを・・・。」「・・・・え?あぁ・・・・おお。あっありがとうございます。」という風なギャルゲーみたいなやり取りをしてしまった。寝起きだからと言うのもあるが、本当にグランプリが信じられなかった。この前も言ったが、あれは褒めてもちゃ困る作品なのだ。自分がやりたいことをアドレナリンが赴くままに撮り、やっちゃいけない構図の変化・DVとZCの組み合せなどあえてやり、そして作中からもタイトルクレジットにも大きく『アンノ・レクイエム』と出しているのだ。そんな作品が認められるなんておかしい話である。審査員はアホか!こんなんグランプリにしたらあかんやろ!
コメント「グランプリをとると夕張国際ファンタスティック映画祭に無条件で上映さしてもらえるので、そのように上映回数・上映場所が増えることが単純に嬉しいです。」とは言ったもののやはり、怖い気がしてきた。今まで自分の範疇にあった作品が知らない場所へ出て行こうとしている。それは当然喜ばしいもののはずやのに、凄く怖い。今までどんなミスがあろうとも俺と言う監督=親が、いや〜あの子のあれは癖なんですわ〜なんて言ってフォロー出来ていたのだが、それが目に届かない場所に行くことにより出来なくなる。全ては作品のせいになってしまう。それがもの凄く怖い。申し訳ないのだ。そして監督は作り終えてしまった作品からはもう作品ではなくなってしまうのだ。だから完成させる時は、十分な形で、どこに出しても恥ずかしくない、もしくはその恥さえも認められる愛せる状態でなくてはいけない。そう、やっぱり監督は完成時点でその+も−も愛せなくてはいけない。島田伸介が言っていた。「親は子供を決して諦めてはいけない」本当に映画における監督と作品の関係は、親と子の関係に似ている。そういえば初めて上映会をしたときの打ち上げで僕は号泣した。単純に創った映画も人に見てもらうことが嬉しかったんだ。そしてそのときに話のおりにやはり監督は作品を子供のように愛し、同時に自分の手から早く離さなくてはいけないというような話が出たことを思い出した。
色々なことを思い出してきて止まらない。本当にあのときのキャスト・スタッフならびに指導してくださった先輩方には感謝している。今度BBQでもしようや。確かに今回のことで怖さも味わったけど、やっぱり今は単純に物凄く嬉しい。そしてこれだけでもいいのかもしれない。

興奮して支離滅裂な話になったことをここに詫びる。