故郷とフィルムの関係性

実は正月に実家に帰郷した際に部からZCを借りて地元の風景を撮影していた。

その時は何の考えもなく、ただ地元を撮っておきたいという気持ちだけでフィルムを廻した。なぜフィルムかと問われれば色々な理由があるのだが、ちょうどフジのsingle8が生産中止を免れた時で、そのいつ終わるともわからない半ば死んだ模様が地元の過疎化に境遇に似ており、また贐的な意味を持ってDVではなくフィルムで撮ってやりたいと考えたわけだ。

話が前後して申し訳ないが、先にやはり地元のうらびれた様子に対する感動があった。それに対して何かしなくてはと考えた。それはもう僕が地元を離れる際から感じていたことだが、我が故郷は本当に死に行っている。いや、『廃市』の言葉を借りるのならば、それはもう既に死んでいる。帰る季節が冬だからか、また東端の港町だから、それ自体が理由となりまた同時に助長しているためか余計に過疎化を重く感じる。母校は既にない。統合され新しく付けられた名が、村起しの計画が、多くのテナントが、元気な学生の姿が、増えた気がする海鳥が、潮風が、それでも繋げようとする電線が皮肉的に終わりを告げている。     

            それに対して何かしなくてはと考えた。だから今年はその風景をただ記録しようと考えカメラを持って帰郷した。しかし、久しぶりのZCは中々言うことを聞いてくれず、またスタッフもいない環境もあって上手いこと進まなかった。けれどもフィルムの持つマジックボックス的な要素に不安を覚えつつも、ラッシュへの期待は徐々に膨らんでいった。
ただ一つ予定外な事があった。僕は先に書いたとおり“死せる町”を撮りたかった。しかし、現実の町はどういうわけか空元気にも賑わっていた。寂れた観光地だというのに何処にも人が、声が、フラッシュがあるのだ。予定外だ。あとでわかったことだが、どうやら年末にかけて、テレビ局や新聞が地元の破綻しかけた電鉄を取材していたらしい。そのためか、正月にも関わらず多くのミーハーな観光客が訪れることになったらしい。…はぁ?僕のフレーム内におばさんの大群がいてはいけないのだ!いや、これもまた現実として受け入れなければならないのか。

まぁ、そんなこんなで撮影したフィルムを遅れ馳せながら、本日現像に出した。撮影時は作品にするつもりはなかったが、なんとか話が出来たので上手く繋げて一本の作品にしようかと考えている。
タイトルは『帰路、迷へども(仮)』
先日、今年の分の作品をいつもスチールを担当してくれるやつに今回もお願いしたところ、タイトルの“迷え”を“迷へ”にしたいという。お任せします。
多分、今回のやつ中で一番ダメだと思うけど、待ってやってくださいな。では。