『市川崑物語』/岩井俊二

shinka2007-02-28


間違いなく僕にとって2007年度最高に最低な映画になることだろう。

ところで、この映画を見に行った人の目的は果たして何であろうか。
市川崑なのか、岩井俊二なのか。
少なくても僕の場合は後者のほうである。
僕ら世代の人間ならば当たり前のことかも知れないが、岩井作品はTV時代の作品を除いてほぼ拝見しているのに対し、恥かしながら市川作品においてはその作品数にあたがわずたった三作品しか見たことがない。
私の目的は岩井氏であり、そしてその目的は期待によるものであった。
岩井俊二は今岐路に立たされている。
そもそも岩井の作品は何故にも僕ら世代に人気を得ていたのか。
それは岩井作品を岩井作品とたらしめていたもの、僕らの世代が指示する理由。
それは撮影監督、篠田昇の存在である。
彼の映し出す淡い光と影の残像はまるで過去に見た風景そのものであり、思い出である。
その懐かしくも美化された記憶の記録化こそ岩井作品ではなかろうか。
しかし、2004年に岩井作品としては『花とアリス』、彼自身としては『世界の中心で、愛をさけぶ』を最後として篠田氏は亡くなられた。この事は岩井氏はもとより僕ら世代にとっても大変な衝撃であったことだろう。
何故ならば僕ら世代の中学・高校生達は皆、岩井俊二行定勲の二人の映画監督の作品に見せられていた。
そして、彼らの作品の撮影監督を務めていたのが篠田氏その人だからである。*1
その篠田氏不在の状況はある意味、岩井作品の根底を崩すものであり今後の岩井の動向が気になっていた。
従って、今作の“新作”は彼の新しいスタイルを宣言するものであって欲しいと勝手に期待していたのだ。


しかし、近作はある意味ドキュメンタリー作品であるからして、私が期待するような点は拝見できない。
だが、私は何もこのような点に置いてだけで今作を否定しているわけではない。
確かにタイミングが悪いとか、残念だという気持ちはある。
でも、今回はどうして彼がこの作品を撮らなくてはいけなかったのかという事はさて置いて作品だけで考えてみる。


今回の作品において、岩井は一貫して自身の少年時代からの視点というスタイルを貫いている。
つまり市川氏を語る上で、市川作品の一視聴者として述べているのだ。
確かにそのような語り口は悪くないし、映画監督が少年化するという面白みもある。
しかし、それ故に全体的に温い。
しかし、全体の9割8分が写真とテロップで構成されている映画をどう好きになれというのだ。
僕は動かないものを見るために動かずに見ているわけではない。
これは私的な好みだが、あれ程スクリーンの文字を読んだ経験は後にも先にもこれが最後であろう。
さらに言えば、岩井が市川氏に抱く感情がなんとも・・・慣れ慣れしいのだ。
市川作品が自身のオリジナルだと断言した・・・・・どこがっ!?
はっきり言って“おまえ”がどう思うが関係ない。おまえが主役では仕方がないだろうに。

とここまで作品の感想を書いていると僕が個人的に感情的にこの作品を嫌いであることがわかる。
少なくてもパンフレットはバンバン売れていたし、観客の顔も悪いものではなかった。
ということは僕一人が最低だと思い、他の人間はこの作品を見て良かったな〜♪と思っているのか。
なんだかなぁ。

*1:行定監督作品では『OPEN HOUSE』、『世界の〜』を篠田氏は手掛けているが、その他の、『ひまわり』、『贅沢な骨』、『ロックンロールミシン』、『きょうのできごと』等は福田淳が撮影監督を務めている。この福田氏は篠田の弟子であるので行定作品においてもやはり篠田の影響が大いにあると考えられる。