[映像]『情熱大陸−オダギリジョー』

shinka2005-09-18


情熱大陸という番組を僕はあまり好まない。
そもそもドキュメンタリー番組という存在自体が疑わしい。
だって、人間を、それもいい大人の、しかも人を魅了させる程の魅力がある人間を毎週毎週、たがが三十分程度で描けるわけがないっ!
所詮、それはその人間のPV程度までにしか行かない。おもしろ人間を紹介して、「ほら?ちゃんと生きてるでしょ。彼は輝きながらも今もまた模索していきている」とか言っていてめでたし、めでたしって強引に幕を引く。チャチャチャーララ〜ン、チャチャラララ〜♪


しかし、今回の情熱大陸は違った。
今日の情熱大陸は本当に情熱・大陸だった。
どうして、そんなことになったのか。被写体がおもしろいからか?Dが違うからか?
僕はその両方だと思う。まぁ被写体のおもしろいという意味は本来の意味とは違うけど。
まず、被写体がおもしろい。オダギリジョーというなんでもない普通のあんちゃんを取り上げる。偉そうに、調子に乗ってる彼。結局何を言っているのかてんでわからない。
その彼が、やはり調子に乗ったあげく、あるいはあの情熱大陸に自分はどう写されるのか、ひいては自分は一般観衆にどう提示されるのかを必要に求めて、情熱大陸そのものの解体・企画にまで口出ししてきた。

これによって、スタッフ側も番組自体の解体とともに被写体・オダギリジョーへの解体をも始める。当然の結果だ。浮き彫りになる、オダギリの凡庸さと痛さ。それでもオダギリという凡人はオダギリという役者をなんとか必死に保とうとする。それを崩そうとするD。いつも以上に繰り返される被写体と撮る側の会話。そうそう、これがドキュメンタリーなんだよ。俺がドキュメンタリーと思っているやつなんだよ。
ただ、被写体の言動を記録として映すのではなく、撮る側も被写体へと絡んでゆき、何処へ行くかわかならい談話を繰り広げる。
人間は、そんな簡単なものでも、綺麗にこんな奴だと言い切れるほどのものではない。常に矛盾を孕んで生きている。その矛盾を一緒に取り上げて会話こ・行動を共にすることこそ、ドキュメンタリーであり、人間を撮るという行為であると思う。

はっきり言って、オダギリジョーに対しての興味はあまりない。それはこの前のトップ・ランナーで彼という人間が一目瞭然できたからだ。オダギリというのは結局、どこにでも普通のあんあちゃんで、特別でありたいと思いながらも、同時に特別でありたくないとも思っている。常に人とは逆へ、常に人とは違うほうへ向かう。


今日の、おもしろさはオダギリへではなく、間違いなくこの番組へ向けたものだった。
その構造、内容、自体に共感と興味をもった。
間違いなく、今回の情熱大陸はあのルール化で出来る最大限のドキュメンタリーの姿を提示したとも言える。
綺麗に終わらせることはしない。それは編集に来訪してきたオダギリの意思とも取れるが、ようは付き合っているスタッフの意思ではないだろうか。


執拗なまでに、自分は人にどう思われているのか、どう伝えられよとしているのかを模索するオダギリは、僕は○○場に出演している十代の少年少女達の姿を思い起こさせた。
そして、番組側の彼は結局オダギリジョーという人間をつくっているただの小田切であるという回答もいい。
まさに、あのラスト3分が情熱大陸を越えた本来の情熱大陸である。最後の
D「しつこいですねー」
田切「しつこいですよ」
というあの構図は、まさに解体し終わった小田切譲が映し出されていたのではないだろうか。