夢の名残

shinka2005-09-01

めずらしく彼女の話をしよう。
朝、彼女からメールが届く。予定していた午前中の訪問はドタキャンするとのこと。
なんてことはない。とメールを見て二度寝する。すると、夢に彼女が出てきた。

夢の彼女は現実の彼女とは別人で髪は長く、茶髪で、ハイカラで、そして誰かとはかけ離れて美人であった。今、思えば“おまえ誰だよ!?”という感じではあったが、夢というのは不思議なもので、その彼女とあの彼女は同じ人だと思っている。

状況を整理すると、僕は彼女にふられたか、浮気の疑いを持ち、幽霊的な存在となり、誰にも気付かれることもなく彼女をストーキングしていた。(やれやれ。)
彼女は美容師らしく、今は夜の店内でスタッフと春の新企画について会議していた。その様を見て私は何故かほっとしている。(何故だ。)
ふと、気を抜いて横を見ると、そこには僕のような幽体が何人も連なり、一斉に彼女を見ていた。
僕は激怒し(だから、何故?)彼らに向かって文句を言うのだが、あちらも言い返してくる。しかも、その相手というのが自分か、あるいは顔のない人物達であった。

夢とは視覚ではなく概念を感覚的に捉えるものである。従って、僕は彼らの顔を“見た”のではなく、“感じた”わけである。よって、僕は自分に似た、あるいはそれと「同時に」顔のないと彼らと認識できたのである。

さて、話を戻すと彼らと口論した私は彼らに負けた。彼らの言う台詞は私の想像を遥かに越えて、理論的であり、聞いたこともない諺を振りかざし、そして新たな解釈を提案した。
つまりの所、完敗である。

さて、もし夢というのが私の記憶をベースにしてつくられた言わば「私監督作品ショー」とするのならば、何故その登場人物・演出は私という枠を越えて、私の知りもしない、考えもしない事が出来るのだろうか。
それも、感覚的なもので私が具体的な表現ではなく、そうであると認識しているのに過ぎないのだろうか。

はたまた、夢を見るという行為が記憶の整理・デフラグだとして、その際に脳によって勝手に掛け算<×>された、言い換えるなら同じ棚に入れられた事により、絶対に混じり合わない可能性0の融合が実現した結果なのだろうか。

討論に負けた私は悲しい気持ちで目を覚ました。しかし、振り返っても悲しい気持ちになる要素など一欠けらもない。これもまた、夢の不思議である。感覚・感情でさえも演出されてしまう。


しかし、その悲しさは時間とともに薄れても、ある種のせつなさだけは今だに残っている。