心境

shinka2004-12-20

現在の心境は非常に複雑である。上映会終了後というものなんだか変で、無気力という表現が適切だろうかそんな感じで生きている。こんな感じは初めである。ついこないだまで、映画について考えるのが物凄く嫌になっていた。まるで“もののけ姫”の完成後に引退宣言をした宮さんの心境である。誰かの映画の話(たとえそれがっ素人の映画の感想だろうが)とか、映画論の本だとかそういったものに触れるとむかついてくる。うるさいなぁー、もういいじゃん!って具合に正直しんどかった。だから部活にも行きたくなかったし、作品について聞かれるのも嫌だったし、何よりも映画に関わる全てのことを考えたり触れたりするのが本当に嫌だった。
そんな感じだから、小説ばかり読んでいた。本を読み、紅茶を飲み、パスタを茹で、テレビなるものを見た。そうしてココまで過ぎた。上映終了後から一ヶ月が経とうとしていた。
きっともう僕の映画に対する興味だとか引き出しとかが空っぽににってしまったんだと思う。消滅ではなく、空虚が存在していた。そして自分のなりの映画論が確立してしまったのも原因であると思う。その映画論が正しいか間違っているかなんていうことは関係ない、唯問題なのは僕がソレで満足してしまったということだ。押井はこう言っている。
−「映画というものはこうだ」と思った瞬間に退屈になる。映画監督は映画監督だからこそ、映画を好きでいる努力をおこたってはならないのだと思う。−
だけれども、最近また映画関連の本を読んでいる。それでわかったことがある。僕は今吸収期の中にいる。人は何かを発する時と、吸収する時に分かれる。要するに元気玉だ。力をためる時と、放つ時。作品を休むまもなく二本作ったことで今の僕は本当にもう空っぽになってしまった。でっかいうんこをしてしまった気分だ。それで、いま文字通りに“もぬけの殻”になってしまった。それはもう『茜雲』の制作途中からそうなっていた。だからネタもモチベーションもなかったような気がする。その時からもう空っぽで、本当に生み出すつらさ以前に何故生み出さなくてはいけないのかという問いにまでいっていた。幸い、それは当初予定した企画書、優秀でモチベーションの高いスタッフのお陰でなんとか最後までやり切れた。いや、話を戻そう。今の心境はゆっくりと物を知りたい。自発的かつ受動的な知識に溺れたいだけなのだ。