上映会に対して

今、上映会の作品の感想を書いているのだが、さて、そろそろ僕らを多忙にした上映会についての感想を書かなくてはならない。
といっても上映会についていえることは僕にはない。なぜならば僕は上映会に関する仕事はほとんどしてない。ほとんどだ。列挙してみる。
・“間違った”ビラ(裏)の作成
・間違った部分の訂正シール原版の作成(複写、裁断、貼り付けはやってない)
・ビラ裏に載せる情報(監督のコメント・写真)の収集と配布(パンフなどに)
・結果約50%の出席率のビラ配り
・雀の涙程の会場作りのお手伝い
・当日の進行
こんなもんだ。この中で頑張った事をしいて挙げれば進行業。でも、それもリハに出席出来なかったり、ミスも二回程した。では何をしていたか。もちろん撮影だ。でも撮影のせいだけには出来ない。それは監督はみんな同じ境遇だからだ。頑張れば、出席できた場面だってあるし、撮影だってもう少し余裕あるスケジューリングが出来ていたかもしれない。多分、僕は他の人とあまり関わりたくなかったんだと思う。時期的に集団行動が嫌なときだったし(それはオールウェイズかもしれない)、やっぱしあまり手伝ってないところに手伝いに行くというのは気まずいし、会場の準備をしていてもどこかその日の夜のにやる撮影の段取りに追われて至りで手がつかない。正直、逃げていた。だから胸を張って頑張った!とは言えないし、逆に胸を張って「あぁ俺は頑張らなかった」って言える。だからだろうか、上映会の打ち上げのときに泣けなかったのは。なんだこいつら気持ち悪いって思ってしまった。そんであまり関わりたくなくて一次会は我慢してたけど、さすがに二次会のカラオケは行く気がしなく外に出た。一人になりたくて、そのまま駅のほうに歩いて帰ってしまおうと思ったけど、先輩からのメールが来て他の店に行くことにした。思えば、そこで帰らなかったのも誰かに気づいて欲しかったんだと思う。誰かに労って、優しくしてもらいたかったんだと思う。でも誰もそんなことはしてくれなかった。子供みたいな事をいうみたいだけど、面倒臭くなって一時ぐらいにはタクシー呼んで家に帰った。
俺は作品の上映なんていつでもどこでも出来ると思っていた。だから上映会も全然シックリこなかったし、そのことで先輩から何度も叱られた。何故叱られるはわかっていたけど、何故かやる気が出なくて、それどころか“去年を忘れたのか。おまえらに言われたくねぇよ”と反発心を持っていた。その問題は今回出すことではないのに。上映会ってなんだ?エイケンってなんだ?なんで俺こんな所にいるんだ?って混乱していた。全てが嫌になっていた。部員たちも、上映会も、自分も、作品までも嫌になっていた。関わりたくなかった。

上映会が近づくといつもこんな気持ちになる。今は落ちついているが−と言うより考えないようにしているだけかもしれないーあの時は酷かった。僕は尾崎少年のように壁とか殴ったり、蹴ったりしていてて拳とかつま先が赤くなっていた。その気になればバイクも盗んで走り出していたかもしれない、これは冗談だ。でも、作品だけは頑張った。茜雲だけは僕だけの問題ではなく、関わったスタッフのためにも頑張った。結果としては上映会バージョンという形になり、クオリティーも悪いが、それでも上映会においては最大限出来ることをしたつもりだ。上映期間中に作品の内容が変わると言うことはあってはならないことなのだが、それでもそのバイタリティーは認めて欲しいし、自分自身よくやったと思っている。この作品も含め今上映会で上映した二本の作品に対する感想はまた個々に設けるが、上映会に関していうには、やっぱり頑張っておけばよかったなと思ってる。
上映会を進行していて思った。やっぱりエイケンとして起こす上映会が一番だ。確かにスピーカーも悪いし、スクリーンだって汚い。会場も汚いし、寒いけど、何から何まで僕らで創る上映会は当たり前に一番の環境だ。見渡せば、手伝ってくれたスタッフ、あの台詞を言って役者が接客をしている。イメージはみんなの中にあり、具現化し目の前にある。それはなんら関係のない一般客にもわかるものだと思う。この上映会が最高でないわけがない。そんなことを進行の時に気づいた。いや、正確には確信したのは反省会のときだ。本人たちが本音で言っているかどうかはわからないが一回生が、“映画なんてあんまり興味なかったけど、上映会やって本当に良かったし楽しかった”って言ってた。それを聞いて、嗚呼俺もそんなこと一回生の初めての上映会の時に思って、打ち上げで号泣してたなって思い出した。あん時だ。なんだろうなー二回生っていうのは反発の時期なのかな。俺だけか。上映会。今年の僕は楽しめなかった。それは楽しもうとしていなかったから。だからもう少し頑張ればよかったと思っている。そうすれば僕も楽しめたかもしれない。泣けたかもしれない。