『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』/摩砂雪 鶴巻和哉 (庵野秀明)

shinka2007-09-01


この序について一言を述べるのならば、
自分自身の12年間のという長い月日を重く感じれた。
ということであろう。
そして、それこそこの“序”の狙いだったのではと思う。
前半、というよりほぼ全編においてTVシリーズと全く同じ台詞、構図。
見ている最中、まるで全国的に行われたエヴァの鑑賞会、オフ会での一場面ではないかと思われた。
変わっているのは、エヴァや建物、その他メカニックだけで人々はそれ程変わっていない。
そして、これは自分自身の生活上においても同様な事が言える。それだけに鑑賞者は矛先を自身へと向け、年月を鑑みる。
即ち、この“序”で制作者が行っておきたかった事は、先ず鑑賞者に12年間を感じさせること、同時にアニメの技術がここ数十年なんの変化もなかったではないかという主張、そして鑑賞者を映画の世界の中においても完全な傍観者に仕立てることではないだろうか。
さて、上記で書いた人々は“それ程変わっていない”と“完全な傍観者に仕立てる”ということについて。
ここではそれ程変わっていないと書いたが、この“それ程”というのが非常に重要である。
建物等の無機物(そこに綾波を含めてもいいが)は、大きく変容しているのに大して人々はそれ程変わっていない。しかし、良く見てみれば小さな違いは確かに存在している。キャラクター達の表情や台詞も然りであるが、例えばネルフやゼーレのマーク、そしてミサトの階級など確実な意図を持って存在している変更点が多数にあるのだ。
つまりこれによって、このヱヴァはエヴァとは似ているのが、やはり違うヱヴァであることがわかる。
その違いを明確にするための今回の『ヱヴァンゲリヲン』なのである。
そして、今回の作品の決定的なポジショニングを明確にしたのがカヲル君の早すぎる登場である。
彼は最後になんと言ったか?
「また三人目とは皮肉なものだね、シンジ君。」(多分)
カヲル君は「また」と言ったのだ。このカヲル君は既に一度シンジ君に出会っている。
つまりこの「ヱヴァ」は「エヴァ」の時間的に先の、あるいは連続した宇宙、ないしパラレルワールドとして存在している世界なのである。これこそ、今回のヱヴァにおける二重構造を成立させている。
観客が「エヴァ」という死海文書をベースとして、新たな「ヱヴァ」を見ること。
あるいは「エヴァ」というファース・トインパクトを受けた後に新たな「ヱヴァ」というセカンド・インパクトを経験すること。
“カラー”は、『エヴァンゲリオン』という作品、現象を重々理解した上で、その構造をさらに利用しようとしているのだ。
そのために“序”において“完全な傍観者に仕立てる”ことが必要だったのである。
今後も“破”、“急”・・・と作品は続いていくが、この点を鑑みるに“序”では我慢した分、ドンドンと違った世界を見せてくるだろう。これは最後に上映された予告からもうかがい知れる点でもある。

さて、最後にヤシマ作戦でのシンジ君の行動について述べておきたい。
後半に配置されたヤシマ作戦においては、途中に完全に違う演出がなされている。それはシンジ君が自身に責任感を持って行動し、再度銃を配置し直して再発砲する点である。この演出には驚いた。シンジ君と言えば、最後の最後まで自分からは行動しなかった事で有名な主人公であるが、その彼がこの時点で既に主人公として行動してしまっているのだ。明らかにシンジ君を“エヴァ”とは違い、主人公として更生させようとしているのである。これにおいては、やはり庵野も新劇場版Zガンダムにおける世間への責任の取り方の影響が大きくあると思うのだが、それを“序”からやってくること、また大幅に変更されるであろう先の展開などを考慮するにとても悲劇的な末路が待っているような気もする。

と同時にそのような予想に期待してる自分は未だチルドレンであると実感した。

そこは未だ見ぬ、故郷か

shinka2007-08-31


今日、二本目の作品が一応クランクアップした。
ここ一週間、一日置きに撮影できて非常に楽しかった。
連日というのもいいが、一日置きとなると色々と準備や整理が出来てスムーズに出来る。
もちろん、スムーズに出来たといっても役者、その他スタッフの方々には多大な迷惑をかけた。
それでも、楽しく出来たはやはりひとえにスタッフの人力のお陰であろう。

今日、撮影終了後に軽くではあるが打ち上げを行えた。
元来、打ち上げなんぞは私のエゴイズムで行っていた節があるが、楽しんでもらえたであろうか。