「船場建築祭2 船場ダンスツワー『ミチコ』」

shinka2007-10-13


今度、撮影でお世話になるお店の付き合いで参加。
正直、予定がつまっていて直ぐに帰ろうと予定していたがあまりのおもしろさに最後まで参加してしまう。
かなり大雑把な解釈だが船場の古い建築物を知ってもらおうというという企画の中で街頭劇をしながら出演者と町を散歩するという素敵な催し。
開始前の注意説明の途中に突如乱入した男、そこから既に劇は開始される。
昔とはすっかり変わってしまった船場の町並みに愕然とする男、しかし昔の記憶を頼りに町を闊歩し始める。
男が愕然とすると、何処からか愉快な音色が響く。遠くの方に目を凝らすと何とチンドン屋がやってきて前を通り過ぎてゆく。ばら撒かれるビラを手にして男は、昔恋したミチコに会うべくチンドン屋を追いかける。
この男が主人公としてまた旅のナビゲーターとして我々参加者を誘導するのだ。
もう初っ端から興奮し捲くり。正直こういう設定に弱い。
最初は戸惑いながらもドンドンと劇の世界に引き釣り込まれる。古いビルジィングへ入ればその屋上では物語上の話が展開され、途中にはポスター、小物、セットなど細かい演出が施されていてある種のアミューズメントパークに参加しているような妙な興奮と贅沢感を覚える。我々参加者は男とともに消えた美人ダンサー『ミチコ』を探す。そして物語は最終幕を迎える。淀屋橋を渡ろうとする前に男はミチコが死んだという事を知らされる。愕然としながらも橋を渡ろうとするとまたしても何処からか愉快な音色が。すると眼下の川を隔てた向こう側には又してもチンドン屋が演奏している。そこでブリキサーカス団の演奏を聴きながらミチコの登場を待つのだが、舞台中央に置かれた無人の椅子とそこに並べられた赤い小物達がミチコの永遠の不在を教えてくれ、物語は悲しくも美しく幕を閉じるのだ。
この場所が今企画の最終目的地となり催しは終了する。全体の構成、細かい演出、そしてダンス・音楽・演劇の見事な組み合わせに感動した。参った。こんなおもしろいものがあるのかと悔しく思った。見事。

今回、初めて街頭劇というものを経験したが、これは凄い。演劇というのは出演者と客との関係性が「共犯関係」にあるというが、街頭劇においてはこの関係性がより強く築かれる。その舞台である町には出演者、それを追いかける我々観客、そして普通に生活する町の住人の三種類の人間が存在する。この間にいる観客達は自分の明確な観客席を失い、また我々自身ですら第三の町民からすれば出演者に置き換えられ、そのことがより一層劇との「共犯関係」を深め物語へ没頭させる働きを持たせる。昨今、演劇の限界を感じていた私はこの新しい経験に光明を見つける。

大変良いものを見れた。

『サッドヴァケイション』/青山真治

今日で学生証の期限が切れる。
ということは、今後は一般料金でお金を払わなくてはいけないということだ。
いきなり、壁が取っ払われ社会が襲ってきた気分がする。軟弱ものめ。

ということで、久しぶりに映画館へ行こうとする。
お金はあまりないが、派遣会社の場所まで行けばバイト代がもらえる。
電車でとことこ行く。降りる際に驚愕した。お金が30円しかない。あと150円足りない。
なんてこった、この小さなゲートさえ越えてしまえばお金が手に入るのにその金がない。
お金を得るためにお金を使わなくてはいけない。セックスするのにもお金がかかる。
確かに僕は金遣いが荒いが、何にせよお金がかかるこの状態もどうなのですか。(歩いて行けよ。)
申し訳なかったが、『切符なくしました』と言って通してもらう。駅員に滅茶苦茶疑われて情けない。

この学生最後の日になんの映画を見よう。
僕にとっては特別な日でも、映画にとっては何の関係もない。物語で選んだらかえって後悔するだろう。
だから、時間帯がちょうどいい作品を選んだ。それで『サッドヴァケイション』皮肉。


全くもって情けない話だが、今になっても映画を上手く語ることが出来ないのは自分の不徳の致すところだろう。
この映画を見たときに、そこで“何か物凄いことが起きている”ような気がしたのだが、それが何であるのか上手く表現できない。そうなってくると果たしてそれがそれ程のものだったのかも疑わしくなる。残念ながら往々にして映画と時間は比例する。先ずは具体的な場面から考えてみよう。


主人公の浅野が自分の母親の義父が経営する間宮運送で働く場面(この際にも相当な時間の飛び越し方をしているが)
母親に義父の経営する間宮運送を継いでもらえないかと浅野に打診する際に浅野は窓ガラスを拭いている。この際に二人は窓ガラス越しに対面しているのだが、浅野は母親の申し出に対して文字通り窓を閉めてしまう。にもかかわらず、その窓ガラスを綺麗に拭き掃除して最終的には母親側へ回り込んでしまうのだ!母親のことを憎みながらも愛されたいという気持ち、許してしまう気持ちを上手く表現した場面だと思える。


次に眠れない宮崎あおいが浅野と夜の事務所で話す場面(このシーンは作品上でも重要な転換期となる)
驚きなのが、両者とも奥と手前で同じ方向を向いて話している。監督自身が作り上げた登場人物(『Helpless』の浅野、『ユリイカ』の宮崎)が交じり合う点において、双方が青い光(これはテレビの光=DVDとしての過去の作品を思い起こさせる)の方を向いて、見つめて話している。この場面は驚いた。先ず、自身が一本に纏め上げることが出来るバックグランドを持つ登場人物をたかが30秒程度で話し言葉で説明していること。そしてその二人がテレビの光とも思える青い光を同じように見つめて回想すること。良く監督としてこのような演出が出来るものだなと驚いてしまった。


最後に普通で申し訳ないが、刑務所に面会する浅野と母親の石田えりの場面。
逃れられない母の力、女の執着心に愕然とする浅野、この場面で映画館の観客全員がグーとスクリーンに吸い込まれる感覚を覚えた。浅野の力か石田の力か、青山の力か、僕の未熟さか。
それにしてもこの場面でもまたして驚かされる。この浅野の苦悩以外、ほとんど登場人物を真正面からバストアップで捉えている。青山程のキャリアを持つ監督がこのような、怖いカットを良く撮れるなと驚かされた。それ程役者を信用しているということなのだろうか。
そう考えるとこの場面は作品の核と言っても良いシーンなのかもしれない。対面する二人の対話。この映画は大きく見れば常に誰かと誰といった二人の対面と対話でなり成っている作品だからである。



さて、話を作品全体に戻す。この作品を見て青山真治がわからなくなってしまった。
先ず“こんな撮り方をする人だったけ”という疑問が浮かび、直ぐに青山作品の演出において流れがないことに気付く。
常に流動する演出、しかもも見たこともない新しい演出といったわけではなく、既に存在している既存の方法論を自身の作品をもって体現していかのようにも見える。その点で言えば、この作品自体に一本の大きな流れが存在しない。まるで三本ぐらいの映画を合致させたかのように場面により演出方法がまるで違う。まるで、ベストアルバムかのように。
唯一つ、こんな映画を商業ベースにのせて、それなりに成功させるのって非常に羨ましい。


それにしても青山真治なんかお洒落になってない?禿げたロン毛のおっさんじゃなかったっけ。

終わりは終わり

shinka2007-09-20


旅から帰ってきた。
欠席していた式の代わりに事務所を訪ねた。
あっさりと、そして呆気なく欲しかったものが手に入った。
欲しかったもの?なのだろうか。
それはまるでオマケのように付随する形で舞い込んできたようだった。
卒業証書を頂きました。
私はこの度、大学を卒業しちゃいました。

腐っても人間

shinka2007-09-05


・・・働きたい。
猛烈に働きたい。
お金、暇つぶし、責任、誰かの役に立つ・・・などと働く理由は挙げようと思えばきりがないが、ただ働きたいのだ。
何かの目的のためではなく、何かを一生懸命したいのだ。このままでは腐ってしまう。人間は凄い。汚い。どうにかして向上しようとする気持ちが、パンドラの箱の隅っこに押し込められたように隠されている。

もっと仕事を!

というわけで派遣の仕事をしてきます。
怖いよ〜。怒られるかな・・・楽しみだな。